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 法と民主主義2011年6月号【459号】(目次と記事)


法と民主主義2011年6月号表紙
特集★原発災害を絶対に繰りかえさせないために(パートT)──各地のこれまでの取組みと司法・行政の責任
特集にあたって………編集委員会
◆「安全神話」の果てに………吉原泰助
◆「原発絶対体制」批判………鎌田 慧
◆原発容認判決を書いた裁判官たちの責任………新藤宗幸
■原発をめぐる各地の裁判闘争
◆伊方1号炉差止訴訟………菅 充行
◆東海第二原発訴訟………村井勝美
◆福島第二原発訴訟………小野寺信一
◆柏崎刈羽原発訴訟………和田光弘
◆女川原発建設差止請求訴訟………松澤陽明
◆「もんじゅ」訴訟………佐藤辰弥
◆泊原発建設操業差止訴訟………星野高志
◆志賀原発訴訟………岩淵正明
◆高浜2号機運転差止請求訴訟………冠木克彦
◆六ヶ所核燃料サイクル訴訟………浅石紘爾
◆島根原発運転差止訴訟………水野彰子
◆浜岡原発差止訴訟………河合弘之
◆大間原発建設差止訴訟………森越清彦
◆玄海原発3号機運転差止訴訟………武村二三夫
◆被災地いわき市の弁護士としての思い………広田次男
◆「原発特集」を企画して………高見澤昭治


 
★原発災害を絶対に繰りかえさせないために(パートT)──各地のこれまでの取組みと司法・行政の責任

特集にあたって
 三月一一日の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所での事故の発生が、今なお未曾有のさまざまな被害をもたらし続けている。原子炉の核燃料が早い段階でメルトダウンを起こし、圧力容器も格納容器も破損していることが、暫く経ってから明らかにされた。そのことにより、大量の放射性物質が大気中に放出され、放射能をおびた汚染水が海洋に放出され、その影響が徐々に広がりつつある。広範囲に及ぶ住民が避難を余儀なくされ、いまだに先行きが全く見えない中、生活不安と放射線の影響に怯える毎日を送っている。避難住民の数と地域は放射線量の測定が進むにしたがって今後更に拡大するおそれがある。
 十分な情報も与えられないまま高濃度の放射線が充満している危険な現場で働いている労働者などに放射線被害が、どのように現れてくるか、また、福島県境を越えて野菜や魚介類などから放射線が検出される事態が生じており、風評被害を含めて、農林、水産業者など経済的な被害が、どこまで拡大するのか、計り知れない状況にある。
 広島・長崎で原爆被害を経験した日本国民が、今またこのような甚大な放射線被害を蒙ることになったのは、なぜなのか。良心的な科学者の批判や警告を全く無視し、絶対安全を掲げて地震列島の上に五四基もの原発を建設してきた東電をはじめとする電力会社に、その第一義的な責任があることは言うまでない。そして、「クリーンエネルギー」、「原子力の平和利用」の美名の下に、経済界、関係官僚、原子力推進学者、さらにマスコミまでが一体となって「原子力ムラ」を構成し、危険性を指摘する科学者をムラから放逐して、これを支え、推進してきたことが、このような重大事故を引き起こしたことから、組織的犯罪行為と言いきっても過言ではないであろう。
 本誌では、事件の重大性と今後の影響を考え、原発災害を絶対にくりかえさないために、二号にわたって特集を組むことにした。司法はいったいこれまで原発問題にどのように関わり、弁護士は何を行い、裁判所はどのような役割を果たしてきたのかを明らかにするために、各地で闘われてきた裁判に焦点をあて、その経過と結果を紹介してもらった。巨大な電力会社を相手に、各地の弁護士が住民とともに、あるいは住民が本人訴訟によって、困難な条件の中、良心的な科学者の協力を得て、全力で闘った報告がこのように纏められたのは初めてのことであると思われる。
 この度の福島第一原発事故は、一言でいうならば、原告側が主張・立証してきたことが、まさに現実化したと言わざるを得ない。もんじゅ訴訟において一審判決を破棄し、原子炉設置許可処分の無効を確認する判決を下した名古屋地裁金沢支部の担当裁判官、志賀原発2号炉機をめぐる裁判において金沢地裁で原告側を勝訴させた裁判官たちを除き、御用学者のいうことを妄信し、電力会社と行政に追従し、住民側が指摘したことを軽々に退け、原子力発電の推進に手を貸してきた裁判所の責任は重大である。新藤論文は、原発をめぐる裁判全体を総括してそのことを指摘しておられるが、この機会に、全国の裁判官には福島原発事故を他人事だと思うのではなく、行政訴訟のあり方、裁判の使命や責任を思い直し、心から反省をしていただきたいと考える。
 さらに、福島大学元学長の吉原氏に、首都圏の電力を支えてきた福島県に、「原発銀座」とも称される原発ベルト地帯が形成された背景にどのような仕掛けがあったのかを指摘してもらい、それが原発を受け入れざるを得なかった地域に共通する事情であり、電力側の手法であることを、全国の原発地帯に足を運び問題点を報告してきたルポルタージュ作家の鎌田氏に報告してもらった。
 吉原氏は、巨大人災というべき福島第一原発事故のこれまでの経過を振り返るとともに、事故後もなお「安全神話」の後遺症ともいうべき、誤ったあるいは後手後手の対応が、地元民らに過酷で悲惨な数々の人権侵害をもたらしていることを実態に即して論じるとともに、福島九条の会の会長として、「原発偏重のエネルギー政策を推し進めた利権絡みの原発推進共同体と、九条改正をたくらむ改憲推進共同体とは、同じ土壌に根をおろしている」こと、さらに「原爆と原発が一卵性双生児であることに思いをいたすことも重要である」と、問題の本質をずばり指摘している。
 次号では、原発問題に今後どう取り組むべきかに焦点を当てる予定であるが、この度の大災害を教訓にして、安全で安心して生活できる日本にするために、何が重要なのかを考える手掛かりにしていただければ幸いである。

「法と民主主義」編集委員会


 
時評●原発震災と最高裁判所

(理事長)久保田 穣

 五月三日の憲法記念日を前にした記者会見で、竹崎博允最高裁長官は、一連の原発訴訟のほとんどで、裁判所が国や電力会社の言い分を認めてきたことについて、次のように答えた、と報じられていた。
 「あらゆる科学の成果を総合し、原子力安全委員会などの意見に沿った合理的な判断がされているかに焦点を当て、司法審査してきたと理解している」(『朝日新聞』五月三日付朝刊)と。
 だが、原子力の「安全の確保に関する事項について企画し、審議し、及び決定する」(「原子力基本法」五条二項、「原子力委員会及び原子力安全員会設置法」一三条)とされた安全委員会は、独自の調査権限や機能を持たないことなどから、安全審査等を原発企業に依拠せざるをえないという、独立性や中立性を欠いた委員会であったことが明らかにされている(吉岡 斉『現代思想』五月号、伴 英幸『世界』五月号など)。
 安全委員会による審査審議が、オーソライズのための儀式にすぎず、実質的なチェックは果たされない安全審査なるものがまかりとおってきたからこそ、「人災」として福島原発事故が現出したと言えるのである(田中三彦『科学』五月号、桜井 淳『中央公論』五月号など)。
 竹崎最高裁長官の上記のような記者会見での答弁は、一連の原発訴訟をつうじて、最高裁が原子力安全委員会のそのような審査のありようを踏まえた実質的な司法審査を、そもそも行ってきたのかについて、改めて疑念を抱かせられる。
 最高裁は、原子力安全委員会を信頼性の高い科学技術専門組織であると無批判に前提にするなどして、一連の原発訴訟をつうじて、国の原子力推進行政を事実上あと押ししてきたと言える。一連の原発訴訟のリーディングケースに、現在もなっている伊方原発一号炉、および福島第二原発一号炉の、設置許可取消訴訟における最高裁判決(一九九二・一〇・二九最一小判)で、行政庁側の主張をそのまま採用して、原子炉設置許可の段階における安全審査の対象は、基本設計ないしは基本設計方針にかかわる事項に限られるとしていた。
 原発の危険の重大性を踏まえて、原子炉施設の安全性に関係するあらゆる事項について、計画の当初段階から、ひろく審査対象にすることを、免れさせていたのである。
 そして、そのような限定は、後続の原発訴訟における最高裁判決で踏襲されてきただけではなく、たとえば、高速増殖炉「もんじゅ」の設置許可無効確認訴訟における最高裁判決(二〇〇五・五・三〇最一小判)などに見られたように、安全審査の対象を基本設計に限定したうえで、どのような事項が基本設計における安全性にかかわる事項であるかも、「原子力安全委員会の意見を十分に尊重して行う主務大臣の合理的判断にゆだねられている」として、司法審査を放棄したに等しいような判断を示してきたのである。
 予断の許されない状態に依然としてある福島原発事故により、多数の人々の生命、身体、健康、そして環境という「何事にも代え難い権利、利益」 (「もんじゅ」差戻後控訴審、二〇〇三・一・二七、名古屋高裁金沢支部判)の侵害が、現実のものになってしまっているなかで、これまでの原発訴訟における最高裁の司法審査のありようは、今こそ深刻に反省されなければならなかったはずである。
 竹崎最高裁長官の上記の答弁には、そのような反省の片鱗すら感じられないものであった。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

マルクス主義法学の船に乗って

東京大学名誉教授藤田 勇先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

963‐64年、モスクワ留学時代の仲間と東京で同窓会。右から藤田先生、小原元(国文学者、評論家)、城田俊(ロシア語、獨協大学名誉教授)、丹辺文彦(ロシア語、愛知淑徳大学教授)、斉藤勉(日ソ学院=現東京ロシア語学院教師)、林基(中世史家)各氏。小原氏はモスクワの東洋語大学の、林基氏は科学アカデミー東洋学研究所レニングラード支部の招聘教授。

 二〇一〇年八月一五日、藤田勇先生は「マルクス主義法理論の方法的基礎」(日本評論社)のはしがきを書いた。二〇〇六年一一月に渡辺洋三先生が逝去したことがこの本をまとめるきっかけになった。二〇〇九年八月には長谷川正安先生が「渡辺さんの後を追うように鬼籍に入ることになった」。洋三先生は藤田先生の四才年上の尊敬する研究者で共に東京大学社会科学研究所で学び研究した。正安先生は二才年上「年はあまり違わないのに正安さんは僕が研究所に入るよりずっと前から論陣を張っていた」。三人とも戦争から生還、または召集解除で復員して研究者になった。「私はソビエト法と言う外国法を専攻領域にしていたせいばかりとはいえないが、発想が理論史に傾きがちだ」。共にマルクス主義法学の船に乗ってきた。一九二五年生まれの藤田先生は八五才、「残された時間は少ない」とおっしゃる。昨年八月一五日は、藤田先生が中国東北部図們から延吉に向かう途中の三叉路でソ連軍を迎え撃とうとしていたその時から六五年目の夏であった。

 藤田先生は朝鮮咸鏡北道羅南市で生まれた。父は蚕糸専門学校で養蚕を学び、養蚕技師として原蚕種製造所につとめていた。咸鏡北道の各農村から青年男女を集めて養蚕の講習をしていた。母は実践女子学園で和裁を学び朝鮮羅南女学校で裁縫の教師をしていた。共に新潟県の佐渡の出身である。姉と二人の弟がいる。勇君は三才のとき母の実家佐渡加茂村の高橋酒造に預けられ、祖母に育てられた。加茂村の尋常小学校に入学し二年まで通い、三年になるとき家族の下に帰った。鏡城小学校に転入して一五才まで鏡城で育った。小学校も旧制羅南中学も日本の植民地の学校で勇君は朝鮮の人々の暮らしにも、人々にも直接触れることなく生活をしていた。一度だけ朝鮮人の子どもに挑まれたことがあった。「ここはお前たちの国ではない。お前たちは自分の国イルボンに帰れ」と言って突っかかってきた。勇君が組み伏せると相手が泣き出した。「ここはお前たちの国ではない」という叫びを「私は、じつのところ当時よく理解できず、だから言い返すこともできなかった。そのことについて両親や先生に聞くこともしなかったが、幼い胸に一つの棘として残ることになった。この時の状景はありありと想いうかべることができる」。

 一九四一年四月、勇君は高田市で勤務医をしていた叔父の家に寄宿して高田中学四年に転入する。「内地の高等学校から帝大へ」との母の強い思いで決められたことだったようだ。一生懸命受験勉強をし、次の年旧制新潟高校文科甲類に入学する。寮に入り、文学書を読み、大正教養主義の本を読んだり西田哲学をやったりしていた。戦況も厳しく二年半で卒業となる。一九四四年の一〇月東京帝国大学法学部政治学科に入学する。法学部は六〇〇名の新入生だった。

 戦況は厳しく、勇青年は高校時代からこの戦争は負けると思っていた。そういう高校の教授もいた。しかし徴兵は避けられるはずもなく、行けば死が待っている。大学に入学して半年後一九才で徴兵。「すべては終わりだ」と覚悟した。一九四五年三月、仙台に入営し、五月には生まれ故郷の羅南の自動車隊に転属となる。ひさしぶりの生誕の地だった。

 鉄拳制裁もある軍隊だったが、東京帝国大学生の弱兵勇青年を助けてくれる人も多かった。何とかソ満国境にたどりつく。八月一五日、前記の三叉路でソ連軍を待ち受けた。みんな日の丸のはちまきをした。勇青年の頭は真っ白、いよいよ死ぬしかないと思った。ソ連兵はやって来なかった。昼過ぎに白旗を掲げた日本軍の車がやって来た。「死ななくてよい」。その日はとにかく眠った。そして次の日、ソ連軍に投降することになる。間一髪の終戦だった。八月一六日仮収容所の穴を掘っただけのトイレで月を仰ぎながら「日本は文化国家になる」としみじみうれしかったという。

 その時から一九四九年一一月舞鶴に復員するまで四年三カ月勇青年はハバロフスク、フルムリ地区の捕虜収容所を振り出しに抑留されることになる。一九才から二四才青春のときである。腎臓の病気を抱え、体力もない勇青年は強制労働に向かなかったため、かろうじて生き続けることができた。なんと言っても東京帝国大学のインテリ学生である。労働はダメでも勉強は好きである。フルムリ地区の収容所で開かれる学校に通うことになる。できが良いのでハバロフスクの学校までいく。学んだのは弁証法的・史的唯物論、政治経済学、日本事情、ソ連事情、レーニン主義の『基礎』及び『諸問題』(スターリン)、国際情勢等。講師は日本人だった。勇青年は収容所で壁新聞作りもやっていた。幸運であった。

 復員後大学に戻った。日本に帰ったら資本論をじっくり読んでみようと思っていた。一九五一年か、社会科学研究所のソビエト部門の助手にならないかと山之内一郎先生から誘われた。シベリア抑留が目にとまったのかも知れない。助手ならば給料ももらえる。やり遂げられるかは分からないが学問の道も悪くない。この時藤田先生の進むべき道が決まった。山之内先生のもとにはじめて伺ったときの指示は「プラウダ」の一論説を翻訳せよだった。ところが藤田先生はシベリアに四年もいたのにロシア語がまったくできない。それをいうと山之内先生は「いやできるのです」と断言された。藤田先生は腹をくくってロシア語の勉強とプラウダの記事の翻訳を始めた。二五才、遅い出発だった。

 社会科学研究所は経済学や政治学、法学など研究分野が広い。とりわけ経済学の分野から藤田先生は大いに刺激を受ける。一九五八年には研究所の助教授になる。一九六二年九月から一九六四年七月まで二年間モスクワ大学法学部に留学しソビエト法理論史の研究を深める。一九六九年に教授になり、一九八〇年から八二年まで社会科学研究所の所長を務めた。専門分野の論文や著作は言うまでもなく、退官後は神奈川大学で教鞭を執り、民科法律部会事務局長、法社会学会理事、日ソ協会理事長、日本ユーラシア協会会長、国法協会長、非核の政府を求める会世話人、などその活動はひろい。

 お住まいは大船の高台にある。もともとは鈴木圭介先生の所有地で一九七六年、藤田先生が移って来た。土地の値段は渡辺先生が鶴の一声で決めたという。一本道の向こうは鎌倉市である。小高い丘がいくつもある。笹や雑木が風に揺れる。

 「季節で丘の色が変わるんです」。大船の駅で、待ち合わせ時間のかなり前から待っていてくれた藤田先生。「近くに美味しいそばやがあって、予約しようと思ったんだけど土曜日でダメでした」。風が吹き抜ける応接室には書庫からあふれた本が積んである。一角には渡辺洋三先生の本がまとめてあった。

藤田 勇(ふじた いさむ)
1925年朝鮮羅南生まれ。52年東京大学法学部卒業。
東京大学社会科学研究所教授、神奈川大学法学部教授を歴任。現在、東京大学名誉教授。
著書「ソビエト法理論史研究」(岩波書店)、「法と経済の一般理論」(日本評論社)、「自由・民主主義と社会主義」(桜井書店)、「マルクス主義法理論の方法的基礎」(日本評論社)など多数。


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