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 法と民主主義2011年2・3月号【456号】(目次と記事)


法と民主主義2011年2・3月号表紙
特集★公害弁連40年の歩み─被害者救済と公害根絶の闘い─
特集にあたって………村松昭夫
◆人権と環境権の確立をめざす専門家ネットワーク─公害弁連40年の歩みに寄せて………寺西俊一
◆公害弁連の闘いに学んで………吉村良一
◆被害者を一人残らず救済させるために………藤野 糺
◆西淀川公害訴訟の提訴まで………森脇君雄
◆日韓弁護士の連帯と協力………ウ・ギョンソル
◆座談会@公害弁連結成と結成当初の闘い………出席者・近藤忠孝/豊田 誠/馬奈木昭雄/野呂 汎/須田政勝/中島 晃(司会)
◆座談会A被害者救済から公害差止と国の責任追及………出席者・吉野高幸/関島保雄/羽柴 修/西村隆雄/中島 晃/篠原義仁(司会)
◆座談会B公害の原点、水俣病の闘いを振り返って ………出席者・中村洋二郎/園田昭人/尾崎俊之/寺内大介/板井 優(司会)
◆座談会C環境破壊の防止と新たな取り組み ………出席者・鈴木堯博/後藤富和/森 コ和/伊藤明子/中杉喜代司/村松昭夫(司会)


 
★公害弁連40年の歩み─被害者救済と公害根絶の闘い─

特集にあたって
わが国は戦後、人類史上かつてない急速な経済発展を成し遂げたが、その一方で未曾有の公害と環境破壊を発生させた。全国各地で深刻な公害被害が発生し、その様は「公害列島」と称せられるほどであった。
 そして、こうした公害発生をもたらした背景には、利潤追求を最優先する産業活動とそれを後押しする国の開発優先政策があった。まさに公害の発生は構造的な人権侵害そのものであった。当然のことに、被害者の救済と人権の回復、公害の防止と根絶を求める声は広範な世論となっていった。その世論は、都市部を中心に公害防止と環境保全を掲げる革新自治体を誕生させ、国においても一九七〇年の公害国会において、公害対策基本法から経済との調和条項が削除され、多くの公害関連法の制定や改正が行われた。
 こうした被害者救済と公害根絶の世論形成に大きな役割を果たしたのが一九六〇年代後半から本格的に展開された公害裁判であった。一九六七年六月に提訴された新潟水俣病裁判を皮切りに、六八年三月にイタイイタイ病裁判が、六八年九月に四日市裁判が、そして六九年六月に熊本水俣病裁判が次々に提訴された。いわゆる四大公害裁判である。

全国公害弁護団連絡会議(公害弁連)は、一九七二年一月、それまでの年一回の「全国公害研究集会」(青法協主催)を発展させる形で、弁護団相互の交流や支援体制の確立、実践的な法理論の構築、被害者・支援団体・研究者との連携の強化等を継続的に行うことを目的として結成された。すでに四大公害裁判に次いで大阪国際空港騒音裁判が提訴され、前年にはイタイイタイ病裁判、新潟水俣病裁判で相次いで被害者勝利の判決が勝ち取られ、七月には四日市裁判の判決が出されるという闘いの進展のなかでの結成であった。徹底して被害者の立場に立ち、被害者救済と人権の回復、公害根絶のために断固として闘う、まさに世界でも例をみない弁護士集団の誕生であった。
 以後、公害弁連は、四〇年間に亘って、カネミ油症、スモンをはじめとする薬害、安中公害、予防接種、大気汚染、基地公害、道路公害、新幹線騒音、ムダで環境破壊の公共事業の差し止め、アスベスト問題など、わが国に発生してきた多くの公害、環境破壊に、公害被害者、学者・研究者、医師、支援者らと共に献身的に取り組み、大きな力を発揮し貴重な成果を積み重ねてきた。

私自身も、三〇年に亘って西淀川公害裁判、道路公害問題、アスベスト問題等にかかわってきたが、公害弁連の連帯した闘いと共同した討議を通して間違いなく多くのことを学んできた。とりわけ、一九九一年三月二九日の西淀川公害裁判の一次判決時に、全国各地から一〇〇名を越える公害弁護士が判決行動に駆けつけ、深夜に及ぶ企業七社との交渉を展開し、最終的にすべての企業との間で解決に向けた継続交渉の約束を勝ち取った闘いの印象は未だに鮮明である。公害弁連の頼もしさと連帯した力のすごさを実感したものである。

公害弁連四〇年の歴史は、徹底して公害被害者の立場に立ち、被害者救済から公害の差し止め、企業責任の追及から国の責任の追及、さらに公害と環境破壊の事前防止、環境再生へと一歩一歩前進させてきた歴史であり、それを支えたのは、成果を互いに確認しあうとともに、時には取り組みの不十分性、曖昧さを厳しく追及しあうことも含めた全体的な共同討議であった。
 こうした四〇年間の闘いを総括し、経験から教訓を引き出し、それを内外に発信していくことは、わが国の公害環境裁判の多くを担ってきた公害弁連の重要な役割でもある。そして、その作業は、様々な困難を抱えながらも闘いを続けている現在の公害環境裁判にとっても、同様に理不尽な人権侵害に対する闘いを進めている他分野の人権闘争にとっても、さらには、著しい経済発展のなかで現在進行形で公害と環境破壊が進む中国をはじめとするアジア諸国にとっても極めて有用である。

今回の特集は、以上のような問題意識のなかで、公害弁連結成四〇周年にあたって、その闘いの歴史を振り返り、その成果を確認すると共に、そこから教訓、知恵を引き出し、さらに今後の課題と方向性を明確にする作業を試みたものである。もちろん、そこで取り上げた裁判闘争はわが国で闘われてきた公害環境裁判の一部に過ぎず、今後の課題に関しても全面的なものではない。しかし、公害弁連の真骨頂である、公害という構造的な人権侵害に対して、それも大企業や国を向こうに回して、被害者や住民と共に情熱を燃やして格闘してきた四〇年の歴史の一旦は伝えることができたのではないか、同時に、今なお続いている公害の発生と環境破壊をどう防ぎ、根絶していくのか、最終的には環境再生まで発展させていくのか、こうした今後の課題についても不十分ながらも提起できたのではないかと考えている。

特集では、公害弁連四〇年の闘いを、@結成当初の闘い、A被害者救済から公害根絶をめざした公害差し止めの闘い、B公共事業などによる環境破壊に対する裁判を中心とした現在の闘いと今後の課題、そして、Cわが国の公害の原点である水俣病の闘いの四本の座談会によって振り返り、あわせて公害弁連の闘いについて、公害被害者、研究者、医師、そして韓国の仲間から、その歴史的意義や公害弁連とともに歩んできた思い出を語ってもらっている。

公害弁連の闘いは、わが国において公害と環境破壊が続く限り終わることはない、否、二度と公害と環境破壊を引き起こさない社会経済システムや政治的仕組みが作られ、環境の再生が実現するまで継続、発展させていかなければならない。四〇周年はその節目であり、これからの闘いの出発点でもある。

村松昭夫(全国公害弁護団連絡会議幹事長)


 
時評●基地公害訴訟と平和運動

(弁護士)榎本信行

 米軍や自衛隊の基地が発生させる爆音について、当初「だから基地を撤去せよ」という運動が主流であった。六〇年安保闘争の余韻が強い時代背景もあって、爆音は基地撤去闘争を理由づける要因の一つであった。したがって、航空機の夜間飛行中止と損害賠償請求訴訟を提起しようということについて、それは基地の存在を認めた上での条件闘争であるという消極論があった。
 飛行中止と損害賠償の訴訟は、元来大阪空港訴訟が始まりである。同訴訟でも飛行の公共性が問題になっていた。しかし、航空機による輸送そのものの公共性については、一般に異論がなかったし、今もない。
 ところが、米軍や自衛隊の基地の場合、私たちは、これらが憲法九条に違反して違法であると考える。その論点を抜きに飛行中止を訴えるのはどうかという議論である。
 しかし、基地周辺で運動している弁護士は、日々ふりまかれる爆音を何とかしてほしという周辺住民の要求を「基地撤去を要求しよう」という巨大な要求だけに収斂してすますわけにはいかなくなっていた。それに、爆音被害は、米軍や自衛隊が違法であると思う人もそうでない人にも襲いかかる。そうした状況のなかで、起こったのが基地公害訴訟である。とにかく夜の静けさだけでも取り戻そういう要求の結集である。
 安保破棄、基地撤去の戦いは、平行しいて進めていけばよいというのが、大方の意見であった。
 大阪空港訴訟に呼応した闘いの始まりは小松基地訴訟である。小松基地は、自衛隊基地であるので、自衛隊違憲の主張もした。しかし、相次いで起こった横田、厚木訴訟では、自衛隊違憲の主張も、安保違憲の主張もしなかった。その理由は、云うまでもなく、原告の中に自衛隊、安保は認めるという人も含んでいたからである。嘉手納、普天間などの沖縄の基地周辺の住民も立ち上がり、数千人単位の人たちが結集したことが大きい。
 爆音公害訴訟は、その後損害賠償を獲得し、横田基地では、夜一〇時から朝六時までの原則飛行中止の日米合意を勝ち取り、飛行回数は、現在少なくなるという成果を生んでいる。また、八七年には、東京高裁は「軍事公共性は、他の公共性と比較して、何らの優越性がない」とい判断をした。
 しかし、横田基地周辺などでは、爆音公害訴訟にエネルギーを割いていたために、他の基地被害、基地強化反対、基地撤去の運動が停滞するという副作用も生んだ。
 沖縄では、普天間返還運動を中心として、爆音訴訟がそれを力づけるという関係になっているが、東京などでは、基地の本質問題をおろそかにする傾向がなきにしもあらずであった。
 そこで、横田周辺では、爆音問題は引き続き進められているが、これとは別に、その兄弟運動として「横田基地問題を考える会」を立ち上げ、基地問題を広く考える運動を始めている。安保問題が沖縄を中心に新たな展開を示している今日、基地公害訴訟も新しい視点から戦いを始める必要があるだろうと思うのである。
 横田基地では、昨年暮れの「新防衛計画大綱」で、航空自衛隊の航空総隊司令部を横田基地に移設するという計画が発表された。「在日米軍横田基地」だけでなく、「自衛隊横田基地」ができるということである。基地の強化である。この問題も、市民の目で批判していかなければならない。基地公害訴訟の中の問題ではないが、平和の問題として、連携していかなければならない問題である。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

我々はどこから来て どこに行くのか

作家早坂 暁先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1945年海軍兵学校78期入学当時の早坂さん。15才である。

 早坂さんは今もホテルで暮らす。東京渋谷の公園通り、NHKへ向かうだらだら坂の途中にある東武ホテルが早坂さんの仕事場で住まいでもある。ホテル暮らしは四〇年、東武ホテルに住んで三〇年を超える。ホテル開業が一九七五年なので早坂さんは開業間もない頃からの住人である。ホテルの主ですね。早めに到着して小さなロビーで早坂さんを待っているとハンチングに紙袋を下げた人が帰ってくる。宿泊客にしてはあまりに普段の生活風なので「あらっ」と思った。
 早坂さんは一九二九年生まれ、八一才である。どうしてホテルで暮らすのだろう。「シナリオを書く仕事は二四時間営業。いろんな人が夜昼無く出入りする。家族はたいへんなわけ。初めは旅館にいたの。夜一二時過ぎに遊んで帰ってくると寝ているおかみさんを起こして鍵を開けてもらうことになる。夜行性の人間にはしんどい。それで二四時間起きているホテルに。いろいろなホテルに居たんだけどここになった。このまま最後までホテルに暮らすつもりです」。訪ねる人は遠慮の必要がなく、早坂さんのプライバシーもびしっと守られる。二四時間営業の店を張っているわけである。
 早坂さんの頭の中にはいつも人間のドラマが展開されている。その波瀾万丈の人生も、出会った人々のすばらしさも、時代の風も、創作の根底にある「怒り」も尋常ではない。ところが、そこにいる早坂さんはご近所のおじさんのようにいたって「普通」に見える。ハンチングもよく似合っている。
 早坂さんはたくさんの脚本を書いてきた。その数は一〇〇〇本を超える。小説やエッセイも多い。テレビを持たなかった時代の長い私でさえ早坂さんのドラマは何本も知っている。人間の哀しさと愛おしさがその時代の風景とともに胸に深く残る。早めに始めていたインタビューに駆けつけた高見澤弁護士。「僕があのドラマの起訴状を書いたんです」。一九七八年から始まったNHKドラマ「人間模様/事件」、人情派の菊地大三郎弁護士が、引き受けた国選事件の真相に迫る。起訴状に書かれた事件の真相がどうなっていくのか高見澤弁護士は知らない。若山富三郎が人間味あふれるさえない中年の弁護士を演じた。
 若山富三郎は、早坂さんと同じ一九二九生まれ、当時四九才。お二人とも若かった。「テレビを見ている一〇〇〇万人の人の中にはほんとうの殺人者がいるのです。僕はそういう人から殺人とはそんなものではないよ、と鼻で笑われたくないと真剣に書きました」早坂さんは登場人物の生い立ちや経歴、ものの考え方まで考え抜く。早坂さんが生きてきた人生の深さと想像力でドラマの質感を作る。だからとびっきり面白いのである。
 「僕は起訴状をどう書いたらいいかわからなくてね。判決もそうですが刑事裁判で使われる文章って悪文ですね」。ほんとにその通り。それで高見澤弁護士が手伝うことになる。
 早坂さんの故郷は「花へんろ」の舞台四国の風早町、愛媛県北条市(現・松山市)である。一九四五年一五才で、不沈戦艦大和に乗りたくて海軍兵学校入学。三月、全国から四〇〇〇名の少年が長崎の針尾島分校に集められた。早坂さんも空襲下の五日がかりの旅となった。やっとのことでたどりついた分校で「お前たちの乗る戦艦はない。大和は沈んだ」と言われ、茫然とした。空襲がひどくなり山口県防府へ移される。八月には集団赤痢が流行し、早坂さんも病院に収容される。病院で八月一五日の終戦を迎え、一週間後の二二日、貨物列車に入れられて故郷への帰還を開始するのである。列車は山口を出て、夜広島に停車した。「広島に近づくとすごい異臭がする」
 死臭だった。青白い燐が燃えている。収容していない死体からでていた。次の朝、見渡す限りなにもない広島の町。死体を井げたに組んで積み上げ重油をかけて焼いていた。「地球が消滅する時の光景だと思った」。海を越えた向側には故郷がある。養女だった三つ違いの妹春子は八月五日、早坂さんを訪ね海を渡っていた。そして広島で被爆し行方が知れない。早坂さんの一〇〇〇本を超える脚本の大半は戦争と戦争の傷跡が書かれている。そこで生きてきた市井の人々が主人公である。
 早坂さんが一番の代表作だと思っている「夢千代日記」も被爆がテーマである。
 吉永小百合さんはこの作品を契機に「平和の語り部」として原爆の詩を朗読するようになり、その活動は二五年になる。小百合さんは、胎内被爆者で余命三年という役だった。ドラマでは「いつもじっと暗い海を見ているような芸者・夢千代役」。脇役は個性的で菊奴・樹木希林、金魚・秋吉久美子、千代春・楠トシエ、小夢・中村久美、雀・大信田礼子。いずれも面白い役柄でそれぞれ見せ場をもっている。「先生、私にも面白いことをさせて下さい」そう言う小百合さんに早坂さんは「あなたはご飯なの。筋子や明太子がご飯に替われないでしょう」なるほど。
 コーヒーを飲みながら楽しいインタビューが進む。早坂さんの話は面白すぎる。早坂さんが話すと「ダウンタウン・ヒーローズ」や「東京パラダイス」の世界が生き生きと甦る。早坂さんが生きてきた時代だけでなく時空を超えて古事記まで話は広がる。ウエートレスが「照明を落とさせていただいていいでしょうか」。五時からは夜の部。
 早坂さんはお酒を飲まない。「いや、ライターはしばしば酒に逃避し、体をこわすからです」。五〇才で心臓病と胃潰瘍、胆嚢ガンで余命いくばくもないといわれた。胆嚢ガンは誤診。心臓はバイパス手術をして、半分壊死したままちゃんと動いている。その時に生前葬をしてしのいだ。その後は没後の生活で、没後四〇年になる。
 話しながら早坂さんはだれかに似ていると思う。声も似ている。しばらくして気づいた。桂枝雀さんだ。早坂さんは枝雀さんが大好きだった。芝居やドラマで一緒に仕事をすることも多く「努力家にして天才です。透明感のあるひとだった。それで落語でも芝居でも抽象的な世界を表現することができたんだろう」「いなくなってしまい、がっかりした僕は小説を書く方に気持ちが向いていったんだ。あんな人はもう現れないかな」。枝雀さんは一九三九年生まれ、早坂さんの一〇才年下、一九九九年に自死した。享年五九才。年の離れた弟のようである。
 早坂さんには子どもがいない。「作り出した作品が子どもです」早坂さんはその後ガンも見つかり、リンパ節への転移もある。同郷の大先輩の正岡子規のように「平気で生き」次の世代に志をつなぐつもりである。

早坂 暁(はやさか あきら)
1929年愛媛県生れ。旧制松山中学校から海軍兵学校に入学するが、敗戦。松山高等学校理科医学部コースに進む。途中で日本大学芸術学部演劇科に転じる。卒業後、業界紙記者、出版業などを経てテレビ界に入る。主なテレビ作品「天下御免」「夢千代日記」「花へんろ」など。小説「ダウンタウン・ヒーローズ」「華日記」など。芸術選奨文部大臣賞、放送文化賞、新田次郎文学賞など。


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