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 法と民主主義2011年1月号【455号】(目次と記事)


法と民主主義2011年1月号表紙
年頭メッセージ●創立50周年を迎える日民協へ
◆二つの期待………大石 進
◆市民の目線で第二次司法改革を………宇都宮健児
◆法痴国ニッポンと日米安保条約………霍見芳浩
◆戦闘より銭湯、ラテン的活用を………伊藤千尋
◆東アジアの平和の旗手となれ………徐 勝
◆平和とくらしを守るためにネットワークをひろげよう!………清水鳩子

特集★福祉と環境の東京へ──都政改革の新ビジョン
特集にあたって………編集委員会
◆菅民主党政権の構造改革路線復帰と首都東京変革の意義………渡辺 治
■新東京政策研究会第2回シンポジウムより
◆東京の政策課題──雇用、貧困、高齢者、保育、医療について………後藤道夫
◆環境政策分野からの東京構想について………寺西俊一
◆東京都の財政状況と新たな財政政策に向けた提言………醍醐 聰
◆教育問題における都政改革の新ビジョン………世取山洋介
◆まとめと都知事選挙に向けて………進藤 兵


 
★福祉と環境の東京へ──都政改革の新ビジョン

特集にあたって
 今年は一斉地方選挙の年であり、四月には東京都知事選が予定されている。
 小泉政権下における「三位一体改革」以降急速に地方自治体に対する新自由主義的構造改革が推し進められ、さらに「地方分権改革」「地域主権改革」の名の下に地方自治体の状況は大きくゆがめられつつある。そして、石原都政による首都東京の荒廃ぶりは、その象徴的表われと言える。
 石原都政の下、財政危機を煽って福祉を切り捨てる一方、大企業向けの都市再開発が、独裁的手法で行われてきた。その結果は格差の大きな拡大と福祉・教育の荒廃であった。そして、こうした石原都政の手法は、大阪や名古屋においても踏襲され、全国に広がりかねない状況にある。

 これに対して、渡辺治一橋大学名誉教授をはじめとした各分野の多くの研究者、労働者、市民により「新東京政策研究会」が二〇〇九年一月に発足し、東京都政の現状分析と対抗政策の検討に向けて、昨年一〇月までに既に二〇回以上もの研究会を重ねてきた。その成果である東京都政の現状分析と対抗政策は、「日米安保体制堅持・軍拡路線+新自由主義的構造改革」路線に対する「新しい平和・福祉国家」の具体的構想を示そうとするものである。
 それは、単に石原東京都政に対する対抗構想であるに止まらず、現在全国で進行中の地方自治体の変容と衰退に対する対抗構想としての普遍性を持つものと言える。
 日本民主法律家協会には、かつて、美濃部革新都政を誕生させた際、その一翼を担った輝かしい歴史がある。その意味でも、この対抗策に強い関心を持たずにはおれない。

 新東京政策研究会は、昨年一〇月三日、上智大学で第2回シンポジウム「都政改革の新ビジョン── ポスト石原・福祉と環境の東京へ」を開催した。このシンポジウムでは、後藤道夫都留文科大学教授、寺西俊一一橋大学教授、世取山洋介新潟大学准教授、醍醐聰東京大学名誉教授から、それぞれ、雇用と福祉、環境、教育、財政といった専門分野における東京都政の現状分析と対抗構想の報告があり、最後に進藤兵都留文科大学教授からのまとめと都知事選挙に向けての提案が行われた。いずれも極めて興味深いものであった。本特集はこの報告と提案を中心に構成した。

 さらに、特集ではこれに加えて、同シンポジウムでも開会の挨拶をされた渡辺治一橋大学名誉教授に、鳩山政権の崩壊と菅民主党政権の成立の背景および菅政権の基本政策の分析・評価、その掲げる「地方主権改革」のねらいと都知事選の意義について、新たに論稿を書き下ろして頂いた。
 渡辺名誉教授もその論稿で述べておられるように、現在、最も重要なのは、政権の「構造改革+日米同盟」路線に代わるわれわれの側の対案、「平和で新しい福祉国家の構想」を具体的に提示していくことである。
 本特集が、こうした点についての積極的議論の素材として、都民をはじめ広い市民の中で活用されることを願っている。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●いまこそ小選挙区制廃止の声を

(弁護士)臼井 満

 二〇〇八年夏の衆議院選挙で民主党が大勝し、歴史的な政権交代となった。しかし、鳩山内閣は普天間基地問題でも後退し、公約とともに政権を投げ出し、後継の菅内閣は昨年夏の参議院選挙で大敗、小沢問題で「金と政治」のけじめも付けられず「企業からの政治献金再開」まで復活させる有り様。また、尖閣列島問題の発生も与して自衛隊の南西諸島への配置や「動的防衛」を打ち出した「新防衛計画大綱」「中期防衛力整備計画」など、国民の多数が支持する憲法九条に更に背馳した方向を打ち出すとともに、新年の記者会見では「議員定数削減」と国民多数が反対する「消費税増税」の実現に執念を燃やす姿勢を示した。
 民主党政権になっても政策は次々後退し、その本質は自公政権時代と何ら変わらないばかりか、TPP(環太平洋連携協定)など一層大企業とアメリカ追随を進めている。国民の生活を二の次にして日米同盟強化や大企業奉仕の政策が実行できるのは、まさに民意が国会に反映せず、少数の支持でも多数の議席を占めることができる小選挙区制度のおかげである。
 ところで、昨年七月の参議院選挙において最大五倍を超えた「一票の格差」が争われた裁判で昨年一一月、東京高裁で「違憲」判決が出て以後一二月には広島高裁・東京高裁・広島高裁岡山支部・仙台高裁が「違憲状態」との判断が相次いだ。
 そもそも、選挙における『一人一票』の原則は、数の平等にとどまらず『価値の平等』も当然のことと認識されるようになって久しく、今時の判決は遅きに失した感がある。一連の判決を受けて、民主党も「定数削減」方針に加えて比例区の廃止と選挙区割の変更(一一ブロックに)を検討し始め、西岡参議院議長もまた全国九ブロック制の試案を出したが、民意反映の方向とは異なる党利党略が潜んでいる。
 「一人一票」「価値的にも平等」が形式的に実現されるだけでは本当の議会制民主主義は達成できない。そもそも「一人一票」の原則は、一人ひとりの政治的意思を代表者の選出に反映させるための方法のはずである。議員の責務は、国民に代わって国会で議論し、集約して政治を行うことにある。
 「代議士」の名は明治憲法のもと、衆議院議員が国民に代わって議論する選良として呼称されたことに始まる。すべての国民の意思が議会に反映されてこそ代議制民主主義は成り立つ。
 国会は国民の縮図で無ければならない。多様な民意を代弁する代表者を持てない国は民主主義国家とはいえない。支持率以上の議席を獲得することは詐取というべきである。自分の身代わりを選べない国民は「選挙のときだけ自由で選挙が終われば奴隷となる」。いま、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」(日本国憲法前文)する権利を行使できているとはとてもいえない。元凶は小選挙区制にある。二大政党の対立といっても中間層の取り合いの中で政策は大同小異となり、選挙に魅力がなくなり投票率も下がる。四〇%以上が棄権し六〇%に満たない投票率の中で四割前後の得票で当選する候補者は、詰まるところ全有権者の二五%以下の支持でも当選となり、政党は全体で七〜八割の議席を占める。七五%の有権者の民意は切り捨てられて「死に票」とされ、議席に反映されない。無理やり二つの党に民意を集約することは民意の多様性を否定し民主主義にも悖る。結局、二五%に満たない支持で過剰な七〜八割の議席を獲得し政権を取る仕組みが小選挙区制である。
 民主主義とは多様な意見の存在を前提とするが、小選挙区制の本質は少数意見の切り捨てというより多数意見の切り捨てである。民意の切り捨ては議員定数の削減だけではない。いまこそ、定数の削減と比例廃止反対に加えて「正当な選挙」制度を求めて小選挙区制廃止の声を大きくあげよう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

北の地平に立つ

弁護士廣谷陸男先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1973年9月7日。長沼事件一審福島判決言渡し直後。札幌弁護士会会議室で判決内容を検討する弁護団。廣谷、長谷川正安、池田眞規、彦坂敏尚、尾崎陞など弁護団の面々が集っている。

 「一九六三年以来、弁護士を続けてきました。妻に先立たれ、歩行不能の脚を手術して治そうと最後の努力をしています。娘夫婦も東京で憲法を守る弁護士をしております」。二〇一一年北海道合同事務所新年号「北の峰」廣谷先生の新年の挨拶である。廣谷先生は今年八二才になる。趣味の園芸を楽しんでいた自宅から離れ、今の住まいは北海道合同の近くケア付きマンション一一〇二号室。すぐ近くに山々が見える。「雪の心配もなく食事も選べるし安心です」。そばから娘の米倉洋子さんが「事務所の方もよくしてくれて。入居者の方ともお友達になって居心地いいんです。父はいつも楽天的ですから」。インタビューの日は先生は術後の検診のために東京の「娘夫婦」米倉宅にいた。洋子さんは一人になった父を気遣い忙しい仕事を抱えながら札幌と東京をたびたび往復する。戸田公園にある米倉家の居間は二階。うかがうと廣谷先生は杖をつきながらにこにこしながら出てくる。羽田から電車で来たと言う。洋子さんが付き添ってはいるが脚の具合は「歩行可能」である。米倉家の居間のテーブルは不思議な形をしている。グランドピアノが変形した水たまりのような。表面はピアノの塗装である。どこにでも座れて自在に使える。食事も打ち合わせもでき、「一〇人座れるのよ」。「父が買ってくれたの。父の事務所でも使っていたの」。廣谷先生はこんな机で打ち合わせをしていたんだ。人との距離がほどよくやさしい。廣谷先生は時々蝶ネクタイをする。なかなかおしゃれ。
 廣谷先生の生まれは小樽である。実家は倉庫業をしていた。一九二九年生れ。「ろくお」の名の通り男の六番目、姉妹は四人。直ぐ下の妹「洋子」は幼くして亡くなった。先生は同じ名前を娘につけたのである。大家族である。父は廣谷敏蔵、母愛子、母が家付きの娘である。戦争の時代だったが豊かな家だった。陸男君は小柄な少年だった。一九四一年四月、地元の稲穂小から旧制小樽中に進学。その年の一二月八日太平洋戦争が勃発、級友は次々に海軍予科練や陸軍特別幹部候補生などに志願していった。残った生徒は動員にかり出された。中学四年一九四五年陸男君は親に黙って陸士を受けた。試験は合格したが、身元調査でひっかかった。二男が仙台の二高に進学後治安維持法で特高に捕まっていたからである。その年の動員先は室蘭の日本製鋼所だった。「室蘭の作業現場には、強制連行された多くの朝鮮人や中国人が働かされていた」。「七月一五日、グラマンの激しい艦砲射撃の中で、防空ごうに友人と二人だけで生き埋めになった。はい上がって目にした工場や民家が壊滅して、まさに地獄でした」。「大きい防空ごうに避難した人は全員亡くなった」。陸男君は命拾いをした。一六才だった。終戦は動員先で迎え「やっと家に帰れる」と思ったという。
 翌一九四六年、陸男君は地元の小樽経済専門学校(小樽商大)に入学。「食糧難の時代でしたが、学校では野球、陸上などのサークル活動が一斉に花開き、自由と開放感にあふれいた」。陸男君はマルクス経済学に共感したり、学生自治会活動に取り組んだりしていた。卒業を迎えて陸男君は日興證券東京支店に入社した。一九四九年四月である。株価の動きを黒板に書き付ける仕事から始まって一九五〇年五月には福岡支店に転勤。翌月に朝鮮戦争が始まる。「在日米軍が、戦争に参加し、福岡の空が米軍の爆撃機で真っ黒になりました」「それまで死んでいたようになっていた企業が朝鮮特需で短期間で息を吹き返す。株価は上がり放しでした」「その後世界のどこかで武力衝突が起こるたびに、株式市場で株価が急上昇する。兵器特需が高まるという期待感。私は証券マンの仕事に大きな疑問を感じるようになったのです」。右傾化する世相「戦争が終わって一〇年も立たないうちに、日本は再び戦中・戦前の暗黒時代に逆戻りするのではないか」。このままでは駄目だ。一九五七年春会社に辞表を提出し、司法試験を目指すことにする。廣谷先生二八才、社内結婚した妻承子がいた。東京の世田谷にある妻の実家に居候をして勉強を開始、一九六〇年に合格する。娘の洋子さんはこの時に生まれている。「受かると思っていましたから」。どこまでも前向きな先生である。
 修習は東京。東京地裁は当時「リベラルで明るい雰囲気がみなぎっていました」司法の独立が守られていた時代だった。
 「人間として惨めな思いをする人がいる限り、立ち上がるのが弁護士である」。海野晋吉弁護士の言葉を指針として廣谷先生は弁護士となる。一九六三年四月、新京橋事務所松井康浩先生のところで仕事を開始する。娘の洋子さんは二八年後父と同じ事務所で弁護士の第一歩を踏み出し、松井先生の最後の弟子となるのである。廣谷先生は登録後直ぐに「恵庭事件」に関わることになる。弁護団員の数は四五〇名にも及んだ。一九六六年七月廣谷先生は恵庭事件の弁護に全力を尽くすために札幌に移ることを決意する。「母は東京育ち、遠く北海道に行くことには抵抗がありました。当時はまだ遠い地でした」。一七年ぶりの帰郷、弁護士過疎の広い北海道、先生はその時三七才だった。
 その後の廣谷先生の活躍は広く厚い。
 恵庭・猿払・長沼の憲法事件、多数の労働弾圧事件、選挙違反事件、十勝冷害農家の生活保護の受領弾圧事件、自衛隊員死亡事件、薬害スモン事件、刑事無罪事件平取事件(一家四人銃殺事件、死刑判決確定後被告人は拘置所内で自殺)、北炭ガス爆発事件、等々。弁護士会活動も。一九八三年四月には道知事候補となる。廣谷先生は演説がとてもうまいのである。北海道合同法律事務所を作り、多くの弁護士を育て、自由法曹団北海道支部長など弁護士の団体活動もこなしてきた。超人的な仕事ぶりである。
 「父はほんとうに忙しかった。家にも依頼者の方が来ていました。北海道は広いので車で長距離を移動する。東京に行くことも多い。子どもについては自由放任主義。父から怒られたこともありません」「母は時々私にグチを言うことはありました。たいへんなこともあったと思います」そばで廣谷先生は「そんなことあったの」、全く気づいていない様子である。「父は楽天主義ですから」。
 平和への思いは強く、二〇〇四年提訴した自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟では、弁護団のトップバッターとして意見陳述をした。
 「社会的弱者を思いやる心が、弁護士の原点です」。「民衆の弁護士である」と言い切れる廣谷先生はほんとに幸せ者です。

廣谷陸男(ひろや ろくお)
1929年小樽市生れ。小樽経済専門学校(現・小樽商大)卒。日興証券に8年間勤務後、司法試験合格、東京で開業(15期)。恵庭事件、長沼訴訟、薬害スモン訴訟、北炭夕張新鉱事故訴訟などに携わる。札幌弁護士会副会長、日弁連人権擁護委員会副会長、北海道弁護士会消費者保護委員会委員長などを歴任。


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