「法と民主主義」のご注文は注文フォームからお願いします

 法と民主主義2010年2・3月号【446号】(目次と記事)


法と民主主義2010年2・3月号表紙
特集★議会制民主主義とあるべき選挙制度
特集にあたって……編集委員会・小沢隆一
◆政治改革後の政治世界──「作られる一党優位制」の危機……加藤一彦
◆選挙制度と政党政治──政治における「アーキテクチャ」の構想……吉田 徹
◆民主党「国会活性化」の論理──その問題点……植松健一
◆内閣法制局の憲法9条解釈のなし崩し的解体が狙い──内閣法制局長官の国会答弁を禁止する国会法改正問題……中村 明
◆「21世紀臨調」の援軍と化したメディアの行く末……長谷川千秋
◆民主党・政治改革論の源流──財界と小沢一郎氏のビジョンから……田中 隆
◆衆院比例定数削減の検証──逆行を阻止し一票の生きる日本を求めて……坂本 修
◆自由な選挙をめざして……望月憲郎
◆婦人参政権と理想選挙に市民運動の焔をもやした65年──婦選運動の道を歩む……紀平悌子


 
★議会制民主主義とあるべき選挙制度

特集にあたって

 今やその動静が首相以上に注目されている感のある小沢一郎民主党幹事長は、一九九三年六月の衆議院における宮沢内閣不信任決議で、自民党を割って賛成票を投じた。それに先立つ一カ月前に公刊した『日本改造計画』(講談社)のなかで、彼は、小選挙区制の導入によって「政治のダイナミズム」を取り戻して、「国の基本理念を同じくする二大政党制」を確立することを構想していた。宮沢内閣の退陣と総選挙後の後に成立した細川連立内閣の下で、一九九四年に「政治改革」諸法が成立し、衆議院に小選挙区制を中心とする小選挙区比例代表並立制が導入された。小沢氏は、自民党幹事長時代に、「夢」は何かと問われて、「とにかく、二大政党制をつくること。そして、自民党でない新しい政権担当能力のある政党の初代幹事長になるのが夢だ」と語ったという(大下英治『小沢一郎の政権奪取戦略』河出書房新社・二〇〇五年四一頁)。
 「政治改革」から一五年の時を経て、その「夢」は実現した。二〇〇九年八月三〇日の総選挙における民主党の圧勝によって、選挙による「政権交代」で鳩山内閣が成立し、小沢氏は民主党幹事長に就任した。しかし、『日本改造計画』で描いた彼の「夢」はそこに止まるものではなかった。民主党は、その「マニフェスト2009」で、「衆議院の比例定数の八〇削減、参議院についても衆議院に準じて削減」を掲げ、『日本改造計画』で理想としていた「単純小選挙区制」への道すじを示しており、民主・社民・国民新の連立与党は、「与党と内閣の一体化」、「国会審議の活性化」と称して、@政府参考人制度の廃止、A内閣法制局長官の「政府特別補佐人」からの削除、B大臣政務官の増員などの国会法・議院規則の改正案を策定し、あらたな「政治改革」を始動させつつある。
 こうして、一九九〇年代に構想され、制度化された「政治改革」が、二大政党化と政権交代という帰結をひとまず生んだ今日の時点は、「政治改革」とは何であったのか、これからどうなろうとしているのかを、定点観測するにふさわしい時期と迎えたといえよう。「政治改革」後一五年間の選挙と議会を振り返り、その間の議会制民主主義の変容をどう見るか、政権交代は何を意味するか、政権交代後のあらたな「政治改革」の動きをどのように評価するか等々について検討し、あるべき選挙制度・議会制度とはどのようなものかについて考察することが、今こそ求められている。
 これらの検討は、多岐の論点にわたらざるをえない。また、多様な視角からの考察が必要かつ有益である。
 加藤論文は、「政治改革」の結果生まれた現在の選挙制度が構想する政治システムは果たして日本国憲法が想定する統治構造と適合的かという点を「憲法構造的視点」から検討している。吉田論文は、現在の選挙制度が生む二大政党化が政党政治にもたらす影響と問題点を比較政治制度の観点から抉り出している。植松論文は、民主党の「国会活性化」論の系譜をさかのぼってその特徴を探り、それとは別の国会活性化の姿を提示する。中村論文は、内閣法制局が戦後の議会政治に果たしてきた役割を明らかにし、法制局長官の国会からの排除のねらいは憲法九条解釈のなし崩し的解体にあると指摘する。長谷川論文は、「政治改革」におけるメディアとその関係者の役割について、二大政党政治を唱道する「21世紀臨調」への参画を軸に分析し警鐘をならしている。田中論文は、臨調行革から政治改革をへて描き出されてくる行政権絶対、構造改革、海外派兵の国家像を明らかにするとともに、民主党政権が推進する「第二次政治改革」の本質と矛盾に光を当てる。坂本論文は、民主党などによる衆院比例定数削減の企図が意味するものを検証してそのねらいを探るとともに、これを阻止することの意義と展望を示す。望月論文は、選挙運動を厳しく規制する現在の状況を示し、選挙運動の自由とそれをもとめる運動の意義を明らかにしている。紀平論文は、故・市川房枝氏が取り組んだ婦人参政権運動と「理想選挙」の歴史的意義を明らかにし、日本における本来的な意味での政治改革の水脈を、こんにち私たちに示してくれるものである。
 ご多忙中にもかかわらず、玉稿をお寄せいただいた各氏に深謝いたします。

(『法と民主主義』編集委員会・小沢隆一)


 
時評●「日米同盟」論の矛盾

(明治大学教授)浦田一郎


 政府の公式文書において日米関係について「同盟」という言葉が初めて使われたのは、一九八一年である。五二年の旧安保から八一年まで二九年間、六〇年安保からでも二一年間、「同盟」という言葉は使われてこなかった。

1 「同盟」論の成立
 一九八一年五月八日鈴木首相とレーガン大統領による日米共同声明のなかで、初めて「同盟」という言葉が使われた。記者会見において鈴木は周辺海域数一〇〇カイリ、シーレーン一〇〇〇カイリの防衛力強化を積極的に図る姿勢を明らかにした。しかし同時に国会答弁において、「同盟」論は集団的自衛権に基づく双務的軍事同盟を想起させるが、それを意味しないとした。以上のように、「同盟」論は軍事的役割の強化を基礎づけたが、それには集団的自衛権の否認を中心とする制約が伴っていた。制約を確認しなければ、軍事的役割の強化を基礎づけることはできなかった。軍事的役割の強化は安保条約を前提にしつつ、安保条約に直接の根拠はなくそれを超えている。「同盟」論は、政府見解によって超安保・合憲とされるこのありかたを表現している。
 その土台は、「同盟」論成立三年前の一九七八年旧ガイドラインにあるように思われる。ガイドラインは安保条約を前提にしつつ、それを超えることを示している。条約上の義務はないので、自主的に取り組むことが求められ、立法などの措置は義務づけられないとされた。一九九七年の新ガイドラインでは努力の成果を政策に反映することが期待されるとされ、自主的取組みへの政治的強制?が強化された。

2 「同盟」論の展開
 「同盟」論の展開のもとで「アジア・太平洋安保体制」、「グローバル安保体制」が目指され、超安保・合憲とされる周辺事態法、イラク特措法、テロ特措法などの各種の軍事協力が行われてきた。
 鳩山政権下の「対等な日米同盟」論は、二〇〇九年一〇月二六日の所信表明演説でいうように、日米同盟のなかで日本がより主体的、積極的な関係を築こうとすることである。「重層的同盟の深化」は二国間、アジア・太平洋、世界の多様な課題に関する役割分担の強化を意味している。民主党は、国連重視のもとでも、憲法解釈論・改正論において日米同盟強化の核となる集団的自衛権を否認しているわけではない。運動による政府への働きかけの可能性は、自民党政権より鳩山政権のほうが大きい。しかし、大きな働きかけなしには、鳩山政権は動かないであろう。

3 「同盟」論の矛盾
 以上のような軍事力強化のための「同盟」論は、矛盾をかかえている。条約上の根拠がないので、条約に基づく法的要求はできず不安定である。また憲法違反ではないとされているので、同盟の強化の度に憲法上の制約を確認せざるを得ない。その制約の核となるのは、いうまでもなく集団的自衛権行使の否認である。安保違憲論の立場からでも、この矛盾は働きかけの手がかりとして軽視すべきではないであろう。
 「同盟」論の前提はアメリカの圧倒的な力であるが、それは明らかに揺らいでいる。政府関係文書においても、二〇〇四年「防衛計画の大綱」は「唯一の超大国である米国」という認識を示していたが、二〇〇九年「防衛計画の大綱」を目指した同年八月の「安全保障と防衛力に関する懇談会」(首相の私的諮問機関)報告書は「米国の絶対的な力の優位に変わりはないものの……パワーバランスには変化が生じている」と控え目ながら認識を変えた。「同盟」論を注意深く考えるべき時期に来ている。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

舎利になってもこの人達と

弁護士上条貞夫先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

2009年11月。ピアノの発表会リハーサル。モーツァルトのソナタK.332を演奏する。

 上条先生の趣味は音楽である。四七才からピアノを習い始め、三〇年間レッスンを続けている。歌も歌う。第九は音楽好きの妻淑子さんの誘いで一九九九年六七才で始めた。今年で一二年目になる。二〇〇六年九月「9条がんばれ!弁護士と市民がつどう第九コンサート」から私も一緒に歌っている。練習の帰りの電車で。合唱の最終「歓びよ、美しき神々の輝きよ、神々の輝きよ」と終わるところがある。「ゲッテルフンケン」の拍の取り方は外山雄三さんの指揮も年によって違う。上条先生「僕はどーもあそこの取り方がまだよく理解できてないんだ」と漏らした。すかさず淑子さん「あら、まだあなた分からないの。家に帰って練習しますからね」。淑子さんは桜陰学園の教師(地理)だった。上条先生はドイツ語が得意である。第九のシラーの詩も当然原典に当たり理解を深めて歌っている。二〇〇七年に第九の源流となった合唱幻想曲を歌うことになった。その一年前。「朝食のひととき、訳詞と対比しながら原詩を静かに音読してみます。分かるような分からないような、でも『読書百遍、意自ずから通ず』とばかり気合いを入れて、電車の中でもポケットからそっと取り出して、何回も読みました」「なにかに惹き込まれるものがあって、そのうちに暗誦を始めました。もちろん覚えては忘れるの繰り返しでも、何とか詩の心に迫りたい一心から何とか全文を暗誦できるところまで来ました」。私なんかは覚えられず、すぐに挫折して適当に歌っていました。この違い。弁護士の仕事も同じ。上条先生は弁護士になって五二年間一心に生きてきたのである。
 上条先生は一九三二年に母菊野さんの実家福島の郡山で生まれた。祖父上条元蔵は裁判官を定年退職し、公証人になっていた。上条先生は三人兄弟で三才年上の兄と二才年下の弟がいる。母菊野が出産後大病を患い貞夫君はそのまま福島の祖父母のもとで育てられることになった。
 祖母ていは貞夫君を可愛がった。東京から何度も呼び戻しに来ても貞夫君は頑として帰らなかった。五才の時祖父が亡くなり、貞夫君と祖母ていは東京に引き上げることになった。父軍一は菊野さんの婿養子で、設計技師、会社勤めである。 貞夫君は地元北千束の赤松小学校に入学する。戦争の時代、貞夫君も立派な軍国少年だった。艦載爆撃機のパイロットに憧れ、二五才までには死ぬんだと思っていた。一九四四年、貞夫君は弟と信州に疎開する。貞夫君は疎開先の中学に進学するのはどうしても嫌だった。一九四五年の三月一〇日弟と二人疎開先から東京に戻った。その日の夜、東の空が真っ赤だった。東京大空襲だった。五月には自宅付近もやられるが、風向きで家が焼け残った。貞夫君は無試験で旧制中学に進学、通学するが毎日が空襲の日々だった。八月一五日は自宅で迎える。父は何故か徴兵に行かず長男も学徒動員になっていたが、とにかく家族全員死なずに終戦を迎えた。「今日から空襲が来ない」貞夫君はほっとした。とはいえ戦後の食糧難は容赦なく上条家に襲いかかる。大学の教員になっていた父と買い出しによく出かけたという。とにかくお腹が減って辛い日々だったと言う。
 旧制中学は新制小山台高校になり、貞夫君はそのまま高校生になった。男子校のまま中学からの仲間もそのままだった。大学は祖父が裁判官だったこともあり東大の法学部をめざし、生まれて初めて入学試験を受けた。一九五一年四月入学である。入学後も学生運動はやらず、ノンポリ学生だった。「僕は大学の授業もよく分からない落ちこぼれだった」。「性格的にも裁判官があっていると思った」。
 一九五八年四月、研修所入所一〇期である。ここから上条青年の波乱がはじまる。まずは青年法律家協会に入会する。とんでもない団体だと誤解した両親は「息子が不良になった」と嘆く。研修所を卒業すると黒田事務所に入所する。「私の父親は、まさか自由法曹団などという左翼の集団に身を投じるとはとんでもない。そんな事務所は辞めろと、大変な圧力をかけてきた」。「どうせやるなら、逃げ場のない厳しいところに身を置こう」と入所した上条青年は「毎日が緊張の連続で、不慣れだからという言い訳は利かない。気持ちばかりが焦ってロスの多い仕事振りは自分でも嫌というほど分かった」「入所から半年後、私は父に引っ張られて小島成一弁護士に辞表を出した」それから三日後上条青年は何となく事務所に顔を出してしまう。「事務員が仰天して、もう先生の名刺もゴム印も捨ててしまってないと言う」小島弁護士は「黙って淡々と再入所を認めてくれた」。
 厳しい中小企業の労働争議の中に戻った上条青年は何度も手痛い試練に会う。入所した四月に「これは勝てるから」と振られた小さな木材会社労組委員長の解雇事件、仮処分の判決が一二月二四日のクリスマス・イブの日に出た。全面敗訴。その委員長の小さな木造アパートの一部屋に組合員が集まった。奥さんは勝利を信じて小さなクリスマス・ケーキを用意して待っていた。「これからどうなるんだ、という議論の中で一人の青年が泣き出した。もうダメだ。自分は九州の実家に帰る」。上条青年は茫然としていた。帰り道、畑の上には冬の月が出ていた。「やるしかない、この人たちと一緒にやろう」上条弁護士の原点である。
 その事件はその後、仮処分と本訴すべて最高裁まで連続勝訴した。一敗五勝。一三年かかった。その会社は潰れてしままう。委員長の復職はかなわなかった。「まさに痛恨の思い出である。私の力不足の敗訴だった」五〇年間上条先生はこれを心の支えとした。
 入所時弁護士五名だった黒田事務所は小島事務所そして東京屈指の集団事務所東京事務所へと発展した。上条先生はそこをベースキャンプとして半世紀、多くの労働関係事件を担当してきた。「弁護士として当面する実践上のテーマを、弁護団の討議をふまえて理論的に一歩掘り下げてみようと、多忙な仕事のあいまに図書館を駆けめぐるスリルは格別で、それが長年にわたり仕事を続けられるエネルギーの源泉ともなっています」。「弁護士の立場に徹して、焦点を定めて調べるなら、言葉の壁はそれほど苦にならない」。「僕は裁判で負けることが多いのです。そこから巻き返す。文献の注は外国語でもすべて原典に当たります」。法政大学でゼミを持って一〇年、論文も多い。今は「派遣問題」に取り組んでいる。二〇〇八年一二月労働法律旬報に長大な労作「労働者派遣の法理──ドイツ司法の軌跡」を掲載した。喜寿も過ぎて「さらなる道を青空を仰ぐ気持ちで精進したいと思います」。

上条貞夫(かみじょう さだお)
1932年福島県生れ。東京大学法学部卒業。58年弁護士登録(10期)、東京弁護士会。日弁連女性の権利特別委員会初代副委員長。75〜84年法政大学法学部講師。著書「選挙法制と政党法─ドイツにおける歴史的教訓」(新日本出版社)、「司法と人権」(法律文化社)など。


©日本民主法律家協会