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 法と民主主義2010年1月号【445号】(目次と記事)


法と民主主義2010年1月号表紙
特集★鳩山政権の政策と私たちの課題
特集にあたって……編集委員会
◆鳩山政権の基本的特徴と民主的法律家運動の課題……小沢隆一
◆民主党政権の外交の批判的検討と21世紀の日本外交への提言……浅井基文
◆民主党政権の平和・安全保障政策の行方……和田 進
◆応能負担原則に基づく抜本的税制の再構築を……北野弘久
◆「地域主権改革」の基本問題……白藤博行
◆労働法の抜本的規制強化で構造改革路線の中心を射抜く……笹山尚人
◆新たな福祉理念と新政権下の課題……永山 誠
◆憲法の視点から民主党政権の教育・大学政策を見る……丹羽 徹
◆新政権の地球温暖化対策──25%削減目標とその政策……浅岡美恵
◆農業の本質を問う政策体系を……大野和興
◆国会・選挙制度──民主党集権的「民主主義」の危うさ……小松 浩
◆民主党連立政権と政治資金の行方……上脇博之
◆民主党政権下の政官関係……晴山一穂
◆刑事司法にみる民主的法律家運動の役割……松宮孝明


 
★鳩山政権の政策と私たちの課題

特集にあたって

 民主党は、二〇〇九年八月三〇日の総選挙で、議席を一一五から三〇八に大幅に増やして圧勝し、九月一六日には同党を中心とする社民・国民新党との三党連立の鳩山由紀夫内閣が発足して、以来、約四ヶ月が経過した。
 この間、同政権は、民主党が総選挙で掲げたマニフェストや三党の連立政権合意の実現を旗印にして、自民党政治からの転換を強調してきたが、例えば、普天間基地の移設問題をめぐる政府・与党内の調整、アメリカとの間の交渉に見られるように、日米同盟堅持と米軍再編・在日米軍基地のあり方の見直しの間で揺れ動き、その方向性はなお定まらない。また、新たに設置された行政刷新会議の決定に基づき派手なパフォーマンスで行われた事業仕分けは、小泉政権以来強硬に推進されてきた新自由主義改革の新しい手法とでもいうべきものである。年末に編成された政府予算案では、マニフェストの一部変更や先送りが目立った。
 また、鳩山政権を支える民主党は、小沢一郎幹事長のリーダーシップのもとで、「官僚依存からの脱却」、「政治主導」などのスローガンを掲げて、国会の委員会審議における官僚答弁を禁止し、内閣法制局長官を「政府特別補佐人」から除外するなどの国会法改正をもくろんでいる。「利益誘導政治」を排するとして、実際には自民党と自治体・業界団体のつながりを絶ちそれを民主党が独占するために、国会議員や地方組織、自治体、業界団体の陳情に関し幹事長室への窓口一本化も決めた。マニフェストでは、「二大政党制」をより強固なものにするために衆議院の比例定数の八〇名削減を打ち出している。これらは、議会制民主主義の観点から見て、重大な問題をはらむものであり、軽視できない。その一方で、「政治とカネ」をめぐっては、鳩山首相や小沢幹事長の不明朗な政治資金の処理が問題とされ、とりわけ小沢氏の現在と元の秘書、そして元秘書の衆議院議員らの逮捕に及んで、事態は風雲急を告げている。
 本特集は、こうした鳩山政権と小沢民主党によって進められようとしている基本的な政策について検討し、民主的法律家運動はこれにどう対峙していくべきかについて考察する。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●2010年・年頭に思う

(龍谷大学教授)森 英樹


 流行語大賞が「政権交代」、清水寺恒例の「今年の漢字」が「新」で暮れた二〇〇九年、なるほどこの政権交代には、国民の「新」を期待する思いが反映していたことは間違いない。だが、「政権交代」は本来的な権力交代(Machtwechsel)ではなく単なる政府与党の入れ替わり(Regierungswechsel)にすぎず、「新」はただ顔ぶれの「新」さだけ、でもありうる。政治資金では早くも「古」い利権政治型を露呈し始めた。
 そういえば、change≠合言葉に米国でオバマ政権が誕生したときも、「変」への期待は熱かった。日本のメディアはこのchangeをあえて「変革」と訳し「良くする」といったニュアンスで伝えたが、changeには「変更」という意味しかない。もっとも、ブッシュ政権であれ、麻生政権であれ、あまりにひどい水準・内容であったから、それをともかくもchangeし交代しさえすれば、なにがしか良くはなろう。だが、米国でも日本でも、市民が抱いたのは、そうした程度の期待ではなかったはずである。真に「政権交代」に値するchangeかどうかは、現に展開している政権運用の内容で判定するしかない。
 さてその運用だが、日本では観てのとおりすこぶる流動的で、月刊誌では追いつかない変転の中にある。ただ、根幹のところで転換しきれない最大の問題に、日米安保体制の取り扱いがあることは、徐々に鮮明になってきた。周知のとおり民主党マニフェストは「緊密で対等な日米同盟関係をつくる」とし、この見地から「地位協定改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」としていた。「対等」の強調は、なるほど自民党的対米追随とは異なるが、しかし自民党と同様に「同盟関係」をうたったことは、根本のところで自民党政治からのchangeがない証左である。
 「同盟関係」規定は、今でこそ平然と使われているが、一九五二年に占領が終わり旧安保体制が発足した後も、また六〇年安保改定で生まれた現行安保体制のもとでさえ、日米間を「同盟(alliance)」と規定することは憚られていた。九条のゆえに戦争もしないし軍事力も持たない建前になっている日本が、戦争もするし軍事超大国でもある米国と一体的な「同盟」関係になることなど、日本国憲法からすればありえないはずだからである。
 米国を初めて「同盟国」と呼んで物議をかもしたのは一九七九年、当時の大平正芳首相がカーター米大統領歓迎挨拶で述べたときであった。そして八一年に鈴木善幸首相とレーガン大統領の間で交わされた「共同声明」が「日米同盟関係」を明記したために、大きな政治問題となった。首相はあわてて「軍事的意味合いはない」と釈明したが、伊東正義外相がこれに異を唱えて辞任したほどの深刻な「意味合い」が、この用語には本来ある。
 背景には、七八年に合意された「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」以来急進展し始めた日米の軍事的一体化、つまり「同盟」化の実態があり、安保条約にさえ反して今日に続くその地理的拡大化があった。かくしてこの共同声明を突破口に、その後は中曽根首相の「日米運命共同体」から小泉首相の「地球規模の日米同盟」に至るまで、野放図な日米軍事一体化と運用範囲の拡大がはかられてきて、これが小泉内閣以来の今日型改憲計画を突き動かしてきたのである。
 在日米軍の「見直し」政策の焦点とされた普天間飛行場問題が、その軍事機能の維持を前提にした「移設」問題としてしか構想できないのは、根底のところで日米「同盟」のかんぬきがかかっているからにほかならない。困難を極めている福祉財源の捻出先に軍事費が対象とされないのも同様であろう。日民協結成の礎である六〇年安保闘争から今年で半世紀になる。原点に戻って「闘う日民協」の構えを想起したい二〇一〇年ではある。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

わたしはわたし

「らいてうの家」館長米田佐代子さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1951年春、長野県長野北高等学校、後の長野高校。クラスにただ一人の女生徒の米田さんは真ん中に回りの男子学生と距離を置き座っている。

 米田佐代子さんが館長を務める「らいてうの家」は上田菅平ICから車で三〇分、信州あずまや高原の傾斜地、林の中にある。冬は雪に埋もれて休館、春の芽吹きとともに開館する。とても車がなければたどり着けない。九月の連休に上田にいた私は、菅平に行く道に迷った挙げ句に偶然この家の前を通った。「らいてうの家」が信州にあることは知っていたが突然目の前に現れたときはびっくり。菅平どころではないとお邪魔した。地元産の木を使い、地元女性建築家九人の共同作業で建てられた。入り口の木の橋を渡って玄関につく。玄関を入ると右側がホール。その先にベランダがある。奥に和室と図書室。お当番の方が玄関に詰めて和やかな雰囲気が家全体に漂っている。懐かしくてちょっとレトロで知的な佇まいである。「ちょうど米田先生がいらっしゃいます」小柄な元気のいいおばさんが熱弁をふるっている。オープンして四年になるのに米田さんはご自慢の我が家を説明するようにうれしそうである。
 土地は米田さんが愛する平塚らいてうが一九五八年七二才の時に「いつか野の花、野の鳥と親しみたい」と買い求めていた土地である。「らいてう自身は平和運動に忙しく、夢をはたさないまま一九七一年の五月に八五才で亡くなった」。それから三五年を経てらいてうの夢が実現した。二〇〇二年米田さんが六八才の時に建築が計画され四年かかっての大仕事だった。「生きるとは行動することである。ただ呼吸することではない」と言うらいてうの言葉に押され、米田さんはみんなの力を集めながらがんばった。米田さんは車を運転しない。ここに来るときはだれかに送ってもらう。今でも上田にアパートを借りて「らいてうの家」を守っている。今年七六才になるのに「この間田中美智子さんがいらして下さって『あなた、らいてう気違いね』だって」と、実に楽しそう。
 佐代子さんは六人兄弟姉妹の四番目、次女である。父親は旧逓信省の役人で地方回りの転勤族だった。小さいときから全国を転々と渡り歩き、小中高と入ったところと出たところ全部違う。一九四一年に「国民学校」に入学。「軍国主義教育の固まりみたいな小学校にまるまる六年在学した」もちろん軍国少女だった。「死ぬという実感もないのに一億玉砕を信じていました」。五年生の時に終戦。「敗戦と知ったときは子ども心にショックでした。大変だ何とかしなくちゃと考えて手製のノートにうやうやしく書いたのが『国体護持』」。「でも一週間ぐらいしたらケロリと忘れてしまった」。「八月一五日からあとの学校は、学校新聞を作ったり、ミュージカル仕立てのお芝居やったり、楽しいことがいっぱいあったもの」。徴兵された上の兄は無事帰還したが、中学三年で海軍飛行予科練習生に志願した二男は空襲で戦死。母ひささんは二男のことはそれ以来まったく触れなくなった。
 一九四七年、佐代子さんは新制中学最初の一年生になった。教材「あたらしい憲法のはなし」で育った。「子どもが何をしても親や教師が咎めなかった」時代のなかで佐代子さんは「自分の思うことをいい」ついでに「やりたいことをやり続ける」自分を作っていった。朝鮮戦争のはじまる年の一九五〇年新制高校に入学する。当時一家は長野市にいた。男子校の長野北高校に進学。学年に女子は二名だけ、クラスにただ一人の女子高生だった。そのことが新聞種になる時代だった。高校二年で父の転勤で東京に、都立戸山高校に転入。学校の目の前で米軍が実弾射撃演習をしていた。高校三年の一九五二年のメーデーに、佐代子さんは学校をさぼって皇居前広場に行った。政治的関心も少しあったが、野次馬気分だった。ところが機動隊におそわれ頭を殴られる。ボロ靴が脱げ裸足で「命からがらお濠のところまで逃げて」荷物を背負った行商のおばさんにたすけられ、大学生とアベックを装って機動隊の前を通り抜けた。佐代子さんが初めて男性と腕を組んだ日だった。
 その年の暮れに、父清吉さんが亡くなる。専業主婦だった母親は猛然と職を探して働き、「就職する」という佐代子さんに「授業料の安いところをさがして進学を」と言った。下に弟が二人もいたが、女の子も大学に、というのが母のねがいだった。姉も進学、佐代子さんは当時国立大より授業料の安かった都立大に行き、奨学金とアルバイトで学費をまかなった。 佐代子さんは授業をさぼっては基地反対運動に参加するような学生だったが、五年かかって何とか卒業にこぎ着けた。卒論は「明治一九年の甲府製糸女工争議について―日本における最初のストライキ」だった。帯刀貞代らの「製糸労働者の歴史」(岩波新書)が参考になった。帯刀は「見ず知らずの女子学生に史料をごっそり貸してくれた」佐代子さんの初めての論文である。就職口を探したが大卒女子の採用などわずか。そんなとき都立大の研究室に助手で残らないかと言う話が来る。学部卒の事務助手の仕事だった。佐代子さんは猛然と反発「お掃除やお茶汲みならお断りしたい」と。「研究助手」として採用された。
 就職一年目は六〇年安保。その後歴史学とは縁は切らなかったが研究者として目標が定まらなかった。やがて転機が来る。一九六七年に長女を産む。七年研究助手をやって先が見えないなかでの出産だった。佐代子さんは三二才になっていた。二年後に長男を産む。一九五九年結婚した連れあいは同業の歴史研究者だった。産休明けから預かってくれる保育園もないまま見切り発車。「子育てはまさしく政治的矛盾の焦点だと思った」。待ったなしの子育てのなかで佐代子さんは「女性史をやろう」と心にきめた。アカデミズムの世界では学問扱いされていなかった女性史。「労働運動史ならいいが、女性史では学界で認められないよ」と注意されたという。
 一九七〇年代、佐代子さんは「平塚らいてう」に強くひかれるようになる。らいてうは一八八六年生まれで、佐代子さんより四八才年上である。祖母の世代といってもよい。生前は会ったこともない「歴史上の人物」だった。まだそれほど深く研究されていなかった。「自分に引きつけて」研究するのが佐代子流である。実感あるいは共感がなければ深く研究できないのである。
 佐代子さんは、二五年間助手を務め、論文を書き研究を続け、国際婦人年にも参加し、研究者運動もした。「それから六年間失業して一九九〇年山梨県立女子短期大学の一般教育担当教員として赴任、二〇〇〇年三月に定年となった」。佐代子さんはここでも大活躍。「米田佐代子」はいつでも熱中時代なのです。

米田佐代子(よねだ さよこ)
1934年東京生れ。58年都立大学人文学部卒業。同大学助手を経て、90年山梨県立女子短期大学教授(2000年定年退職)。専門は近現代日本女性史。NPO平塚らいてうの会会長兼らいてうの家館長。
著書「近代日本女性史」(上・下、新日本出版)、「ある予科練の青春と死」(花伝社)、「平塚らいてう」(吉川弘文館)等。


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