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 法と民主主義2009年7月号【440号】(目次と記事)


法と民主主義2009年7月号表紙
特集★現在の政治・経済状況と憲法の役割──第48回定時総会記念シンポジウムから
特集にあたって……編集委員会
■基調講演 現在の政治・経済状況と憲法の役割……渡辺 治
◆幸福の追求と人権国家モデルの実現をめざして……新倉 修
◆定数削減・小選挙区制強化に反対の声を……坂本 修
◆9条・25条と29条・地方自治……山本哲子
◆改憲阻止の運動に力を……吉田博徳

小特集●「長沼事件 平賀書簡事件」から司法を考える
◆小特集にあたって……編集委員会
◆『長沼事件 平賀書簡』は何を意図したか……大出良知
◆官僚裁判官制度に風穴を……安倍晴彦
◆雑感 平賀書簡問題以後……花田政道
◆平賀書簡事件から今回の「司法制度改革」を考える……北澤貞男
◆わが同級生 福島重雄・元裁判官……北野弘久

  • 判決・ホットレポート●八ッ場ダム訴訟 3連敗の教訓……広田次男
  • 司法改革への私の直言(18)●誤判を防ぐための8つのお願い─死刑再審4事件元弁護人有志のアピール……岡部保男
  • 連載●刑事法の脱構築7 DVと正当防衛──福島地会津若松支判平成21.3.26を素材として……森川恭剛
  • シリーズ10●私の原点 若手弁護士が聴く 弁護士 秋山賢三先生 冤罪を生まない刑事司法を……聴き手・野太一朗
  • とっておきの一枚●弁護士 内藤 功先生……佐藤むつみ
  • 日民協文芸●(拾八)……佐古祐二/大倉忠夫/大ア潤一/チェックメイト
  • 国会傍聴記(8)●行政府と立法府の今──核密約の検証を……西川重則
  • 緊急掲載●最高裁を憲法と人権の砦に変えよう!──第21回最高裁裁判官国民審査について
  • インフォメーション●第5回「相磯まつ江記念・法と民主主義賞・特別賞」授与式
  • 書評●田島泰彦著「新訂・新聞学」(日本評論社)……今給黎泰弘
  • 近刊紹介
  • 時評●『35年目の証言』と司法制度改革……久保田 穣
  • KAZE●雑感─商店街のある風景……沖本達也

 
★現在の政治・経済状況と憲法の役割

特集にあたって

 世界は新自由主義経済の行き詰まりから未曾有の経済的危機に瀕しています。アメリカは、ブッシュ路線からの転換を図ったオバマ大統領の諸施策がスタートしていますが、先行きは、まだ不明確なままです。日本では、不況の大波をまともにかぶって生活に喘ぐ労働者・中小業者、国民は、政治の変革を求めています。
 一方政界は、麻生内閣の歯止めなき支持率低迷とともに、自公政権が求心力を失っていきました。安倍流強行改憲論が影をひそめつつも、「海賊対処法案」を再可決し、自衛隊の海外派兵や武力行使を常態化させ、憲法審査会規程の強行採決をはかるなど、改憲志向には並々ならぬものが見られました。
 こうして、追い詰められた麻生内閣は解散・総選挙の断を下し、この夏は熱い政治の季節・選挙の季節として彩られることとなりました。八月三〇日の総選挙の結果は、これからの社会のあり方に、多大な影響を与えるものとなることでしょう。
 この選挙に示されるであろう国民意識の動向、各政治勢力の分布と力関係、そして、アメリカの動向、財界の意向等々の全体像を正確に分析し、私たちが立っている現状をきちんと把握したいものです。
 また、私たちは、なにゆえに、どのように日本国憲法を守る運動を展開すべきか、その方向性をしっかりと見定めて行動の指針としたいものと思います。

 去る七月四日、東京・四谷で開催された当協会の第四八回定時総会では、渡辺治一橋大学教授がこのような問題意識に応えて、基調講演をされました。
 一 構造改革はなぜ行き詰まったのか?
   麻生政権はどう打開しようとしているのか?
 二 安倍政権の改憲策動はなぜ挫折したか?
   麻生政権はどう打開しようとしているか?
 三 政権交代で改憲、構造改革はどうなるか?
 四 憲法の役割
 という大きな四本の柱を立てて、明快な情勢分析とともに、憲法九条と二五条を実現する運動の意義と展望が語られました。また、政権の担い手となろうとしている民主党の基本性格についても、示唆的な解説がなされています。

 今号の特集には、会場から質疑発言のあった次の四氏から、貴重な問題提起をいただきました。
 ◆幸福の追求と人権国家モデルの実現をめざして/新倉 修 
 ◆定数削減・小選挙区制強化に反対の声を/坂本 修 
 ◆九条・二五条と二九条・地方自治/ 山本哲子 
 ◆改憲阻止の運動に力を/吉田博徳

 総選挙の最中、冷静な選択の糧になる特集をお届けできることは、望外のよろこびです。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●『35年目の証言』と司法制度改革

(東京農工大学名誉教授)久保田穣


 今年四月に出版された福島重雄、大出良知、水島朝穂の三氏による共編著『長沼事件・平賀書簡 35年目の証言』(日本評論社刊)は、自衛隊の違憲性が争われた長沼事件の全過程をつうじて、司法内外の支配権力が相呼応して同事件の担当裁判長であった福島判事にくわえた圧力の数々を、同判事が当時したためていた日記にもとづくインタビューと、同判事の身近にいた当時の裁判官らとの座談会により、つまびらかにしていた。
 自衛隊のミサイル基地建設のための保安林指定解除の農林大臣告示にたいし、地域住民らによるその決定の取消と決定の執行停止を求めた一九六九年七月の札幌地裁への訴訟提起に始まる長沼事件は、六七年三月に札幌地裁判決が出された恵庭事件に続く自衛隊違憲訴訟になることが当初から予想されていた。
 恵庭事件については、判決直前になって憲法判断を回避した判決内容に変えられたのではないかとする疑いが、本書の座談会で語られていたが(一七九頁)、福島元判事もインタビューの箇所で、所長等をつうじての圧力が「僕の体験からいっても『恵庭』でもあったのではないかと、これはかなり当たっているのではないかと思いますが、推測ですので、それ以上は言えません」(四四頁)と述べていた。そして、平賀書簡は「おそらく。所長がたまたま思いつくまま自分の意見を述べたというのではないでしょう」(四一頁)として、所長や法務省などが連絡を取りながらの組織的なものであったことを肯定していた。
 平賀地裁所長が書簡を送付するに至るまでに、福島裁判長に何回となく執拗な働きかけをしていたことが本書で初めて赤裸々にされたが、そのことは、一地裁所長にそのような執拗な働きかけをさせた背後にある支配権力の全体意思に行き着かざるをえない。だからこそ、平賀書簡の発覚をあたかも一つの好機とばかりに、その後、一九六〇年代後半から七〇年代の初頭にかけて、政権政党、内閣、そして司法行政当局により、右翼団体やマスメディアをも利用した総掛かりでの青法協所属裁判官にたいする非難攻撃と裁判所からの排除という、権力による逆襲としての「司法の危機」が現出するにいたった。
 さらにその逆襲が、七〇年代半ばから八〇年代にかけての司法行政をつうじて、より広く、裁判官にたいする直接間接の統制管理から、裁判内容そのものの統制に発展するにいたった。裁判官に対する直接的な差別人事や転勤サイクル等を用いての間接的な裁判官統制のメカニズム、裁判官会同・協議会等をつうじての裁判内容の統制システムなどは、当時の日民協の司法制度研究集会等においてもたびたび明らかにされてきた。
 八〇年代後半には、現職裁判官の間から、裁判官の判断は個人としての判断ではなく、国家機関としての判断であり、個人としてある法解釈が正しいと思っても、それとは別に国の裁判所としてのあるべき法解釈は何かというということを探求しなければならず、国家機関としての裁判は後者の法解釈に従ってなされなければならないとした、「国家機関としての司法」論が相次いだ。そのように裁判統制の実が極限に達したことと並行するかのようにして、この時期から九〇年代の初頭にかけて、いわゆる「裁判官の不祥事」が続発していたのである。
 一九九〇年代に始まり、二〇〇七年に関係法令の制定や改正が終了するにいたった司法制度改革は、そのような六〇年代から八〇年代までの司法史、司法政策史と、大なり小なりとは言え、断絶として捉えていいのかを、この『三五年目の証言』をつうじて改めて考えさせられる。とりわけ、支配権力の交代や変質がないなかで遂行された今回の司法制度の改革であったことを考えると、それの総括的評価をこれから行っていく上で、これまでの司法史、司法政策史の脈絡のなかで改革内容のあれこれと、それらの運用実態が点検されていかなければならないとつくづく思うのである。 (くぼた・ゆたか)


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「おいちゃん」はインテリ

弁護士:内藤 功先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

ただの集合写真ではない。1966年11月11日。恵庭論告公判の翌朝。「無罪間違いなし」との確信を持つ弁護団の面々。

 内藤先生は家で「おいちゃん」と呼ばれている。おいちゃんの「とらや」は本郷にある。ビルの二階だがエレベーターなんてない。春日通りに面する入り口から一直線の階段がまっすぐに二階に続く。太りすぎの私は手すりにつかまって上った。事務所は七〇年代風である。おや、岡村先生と佐久間先生が机を向かい合わせて仕事をしている。二人ともパソコンを叩いているのでOA化はしているんだ。右手から内藤先生が登場。内藤先生はおしゃれである。ストライプの背広に紫赤青がミックスしたすてきなネクタイをしている。ちょっとバランスを崩すと大変なことになる組み合わせなのにぴったり決まっている。派手な顔立ちにもあっている。「着る物は先生が選ばれるんですか」「はい」「議員時代に随分そろえましたから」国会議員は見られる仕事だからね。内藤先生は絵になる男なのである。七八才にはとても見えない。
 左手の奥が応接スペースになっている。古いソファーがあり窓にクーラーが取り付けてある。時々それがガタンとなる。
 内藤先生は一九三一年三月二日生まれ。中央区新川酒屋内藤商店の三代目として生まれた。祖父内藤信が丁稚から奉公して起こした灘の酒を扱う酒屋である。家には大きな蔵があり掘り割りから船で酒が運ばれた。「きき酒の名人」京橋区区議会議員をしたり全国酒類問屋組合副会長をつとめる名士だった。ところが父俊雄は慶應大学卒の文学青年で家業を嫌い果物屋とフルーツパーラーを池袋に開店。失敗。石炭会社のサラリーマンになった。というわけで内藤先生は新川で生まれ、池袋に移り、隅田川も荒川も超えて江戸川区の小岩、畑の中に建つ家に移った。結婚するまでずーっと小岩に住む。
 内藤少年はもちろん軍国少年であった。父親の母校の明治中学に進学するが海兵をめざした。母は反対、名古屋の軍事工場の監督をしていた父は「経理学校に行け」と。試験を受けた当時は経理学校は築地にあったし、最前線には遠い。少しでも息子の命を守りたい。
 一九四五年三月九日夜東京大空襲、小岩上空まできたB29は旋回して西へ引き返し空襲を繰り返した。小岩から見た西の空は真っ赤だった。翌朝一四才の内藤少年は総武線をひたすら歩き荒川の鉄橋を渡り平井に。「黒い丸太ん棒があっちにもこっちにも。なにかと思って近づいてよく見たら、死体だった」一歩も進めなかった。そしてその二〇日後に内藤少年は海軍経理学校橿原分校に入校する。
 経理学校予科は築地から奈良県の橿原に移っていた。内藤少年は戦況が切迫していたことは理解していた。「本土決戦になり自分は絶対に死ぬだろう」。終戦の八月一五日までの五ヶ月はひどく長い日々だった。上級生がいなかったのであまり殴られることもなかった。戦車に棒地雷を持って投擲退避する肉弾戦の訓練がなされていた。そんな中で、指導官の少佐が講義でいきなり「貴様たちの中で、将来世界で戦争がなくなると思う者は手を挙げろ」一人も手を挙げる者はいなかった。すると少佐は「ドイツにむかしカントという学者がいた。その人は、戦争も軍隊もなくなる世の中がくると書いているんだよ」生徒たちは何のことかまったく理解できなかった。「自分たちはとにかく死ぬんだ」頭のなかはそれだけ。
 八月一五日終戦の日、ラジオ放送は聞き取りづらく内藤少年は「全滅までたたかえと言う意味か」と思ったりした。就寝のころには事態がわかり「ああ死ななくてすむのだと心の底から思いました」一四才のこの年が内藤先生の原点である。
 一九四五年一〇月内藤少年は明治中学三年に復学する。総武線が動いていたので小岩からお茶の水まで電車で通学できたという。内藤さんはよく学んだ。明治大学予科から法学部に進む。予科に雄弁部を作り部員を引き連れ「朝の討論会」の全国大会に参加したりしてた。当時のライバルは一高の大野正男、静高の正森成二。あらゆる論点について徹底的に調べ準備を尽くして事に及ぶ。大学に進学してからは労働法に興味を持ち松岡三郎先生に可愛がられた。先生の研究室で文献を読み一時は研究者になろうかと考えたこともある。内藤先生には二人の弟と一人の妹がいた。父の収入だけで戦後を生きていくのは大変だった。内藤君は早く職業を持ち家計を少しでも支えなければならない。大学四年一度限りの司法試験への挑戦だった。喘息で体調も悪いなか「どういう問題が出るのかを想定して作戦を立てる」この集中作戦で無事に合格し、六期となる。この時内藤先生は弱冠二〇才、六期最年少だと思う。上野の松坂屋近くの木造二階建ての二階の部屋で先輩の隣に机を置かせてもらっていきなり独立。二三才。台東簡裁の国選を一手に引き受け「どんな人間でも一つぐらいいいとこがかならずある」内藤先生の弁護士初めの一歩である。社会の矛盾の底辺に立つことで内藤先生は社会の構造やその変革の必要性を実感することになった。
 そして三年、一九五七年総評弁護団の結成に参加、六九年には幹事長に。全逓中郵事件、都教組事件、全農林事件など労働事件は当然のこと、砂川、恵庭長沼、百里と平和訴訟にも関わることになる。当時の労働者の感覚は自分たちの生活を守るためには何よりも平和でなければならないと考えていた。内藤先生も大事件を抱え全国を飛び回る事になる。「ロウベン」兼「キチベン」である。
 「私は上野発一三時三〇分発の特急はつかり号で深夜〇時から五時の間に連絡船で青函海峡をわたり、札幌に着くのが九時三〇分、と言う行程であった。列車と連絡船内では、約二〇時間あるから睡眠と食事の時間を除き、ずっと公判記録を読んだり、尋問や発言のメモを書いたりできた」「渡辺さんは、大きなリュックに記録資料を一杯詰め、両手にはテープレコーダーの器材を下げていた。連絡船が函館に着くと、『やっと着いたぞー』と二人で両手をあげて大声で気合いを入れた」。渡辺良夫弁護士は陸士出身。内藤先生は一九六三年から七三年まで通算一〇年、恵庭と長沼(一審)の全公判に参加した。三二才から一〇年である。内藤先生の持ち歌は北島三郎「函館の女」である。青函連絡船が函館に着くとこの曲が流れたという。うまいわけである。一九七四年参議院議員となる。八九年まで議員の激務を果たした。調査は緻密、質問は鋭く、向かうところ敵無しだった。
 今は講演と書く仕事に集中している。「戦争を知る法律家の義務だと思う」。請われればどこにでも行くつもりである。

内藤 功(ないとう いさお)
1954年弁護士登録(6期)。砂川刑特法事件、恵庭事件、長沼ミサイル基地事件、百里基地事件等の自衛隊・米軍関係の訴訟を担当。74〜89年参議院議員。日本平和委員会代表理事。
著書「よくわかる自衛隊問題」(編著、2009年、学習の友社)ほか。


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