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 法と民主主義2008年4月号【427号】(目次と記事)


法と民主主義2008年4月号表紙
特集★今日の冤罪と司法制度改革──冤罪は何故生まれるのか? 第40回司法制度研究集会より
特集にあたって……編集委員会
◆第一部報告・志布志事件の取材を通して……梶山 天
◆第一部報告・志布志事件について……増田 博
◆第一部報告・痴漢冤罪事件とそれを生み出す原因……鳥海 準
◆第二部・第1テーマ 報告・取調べ全過程の録画──取調べの可視化にむけた問題提起……笠松健一
■第二部・第1テーマ パネラー・現在刑事司法の退廃の極致・冤罪……秋山賢三
■第二部・第1テーマ パネラー・可視化の人権論的理論構成の重要さについて……小田中聰樹
■第二部・第1テーマ パネラー・司法の変革の一環として可視化を……成澤宗男
◆第二部・第2テーマ 報告・裁判員制度で冤罪は防止できるか──冤罪の現場から考える……今村 核
■第二部・第2テーマ パネラー・「国民参加」は第一歩……秋山賢三
■第二部・第2テーマ パネラー・構造的欠陥のある裁判員制度をそのまま実施させるべきでない……小田中聰樹
■第二部・第2テーマ パネラー・裁判員制度の落とし穴……成澤宗男
■会場からの意見・質疑・応答
■集会のまとめ……澤藤統一郎
  • 司法改革への私の直言(4)●裁判員制度実施のために必要な改革の検討項目……五十嵐二葉
  • 判決・ホットレポート●仙台・筋弛緩剤点滴混入事件(北陵クリニック事件)……阿部泰雄
  • とっておきの一枚●弁護士 橋本敦先生……佐藤むつみ
  • 連続掲載●9条世界会議をめざして──G9条と平和……ジテンドラ・シャーマ(翻訳 新倉 修)
  • 連続掲載●9条世界会議をめざして──Gいよいよ開催!「9条世界会議」……笹本 潤
  • 連載・軍隊のない国家(26)●パナマ共和国……前田 朗
  • 日民協文芸●〈伍〉
  • 書籍紹介●
  • 時評●恒久法 出てくる背景 阻止する情勢……内藤 功
  • KAZE●進化する「法民」を愛して下さい……編集委員会

 
★今日の冤罪と司法制度改革──冤罪は何故生まれるのか? 第40回司法制度研究集会より

特集にあたって
 去る三月八日、第四〇回司法制度研究集会が東京・四谷で開催されました。
 司研集会は、二部構成で行いました。第一部では、冤罪の現場からの生々しい報告を受けました。鹿児島の志布志事件については、この事件をつぶさに取材した朝日新聞の梶山天記者から、何もないところに警察によって大事件がつくられ、多くの村民の人権や平穏な日常生活を崩壊させて行く過程がリアルに報告され、この事件の深刻さと、第三者機関による調査の必要性が強調されました。また、鳥海準弁護士からは、痴漢冤罪事件について、長期拘留の不利益と冤罪を証明する困難さに、この種の冤罪事件が生み出されている構造的原因があり、この点を是正するよう積極的に発言していかなければならない、との報告がなされました。
 第二部は、一部での冤罪の現場からの報告をふまえて、二つの視点から問題提起が準備されました。一つは取調べの可視化の問題、そして裁判員制度です。
 可視化問題については、大阪の笠松健一弁護士から、日弁連、大阪弁護士会を中心とした準備状況と今後の取り組みについての報告を受けました。
 弁護士の秋山賢三氏、東北大学名誉教授の小田中聰樹氏、ジャーナリストの成澤宗男氏の三人のパネラーからは、一歩前進、全面的可視化の実現こそが必要という前提のうえで、被告人の人権という視野からこの取り組みを理論づけるべきとの指摘がありました。
 もうひとつの、「裁判員制度で冤罪は防げるか」というテーマでは、『冤罪弁護士』という著書をだされた今村核弁護士から、裁判員制度の設計者自ら、「精密司法」に替えて「核心司法」になると言っているが、「核心司法」とは、枝葉を切り落とした杜撰司法にほかならない。国民の司法参加という錦の御旗のもとに、裁判員に過大な負担をさせてはいけない。逆に、過大な負担をさせない、ということで簡略・迅速化が推し進められてしまうのではないか。被告人の権利や弁護権がないがしろにされる可能性が極めて大きいとの指摘がありました。
 お二人からの問題提起をうけ、前述の三名のパネラーからそれぞれの問題意識を述べていただくとともに、会場からも活発な発言が相次ぎました。
 佐々木光明(神戸学院大学)と伊藤和子(弁護士)両氏のすぐれたコーディネイトのおかげもあって、現在の司法がかかえているさまざまな問題点をえぐった、時宜に適った研究集会となりました。
 法務省は、四月八日に、裁判員制度のスタートを来年五月二一日施行とする政令案を発表しています。「連日開廷」による集中審議や取り調べの録音による可視化など、司法の現場では、すでに「変化」が起きています。
 司法が犯す「冤罪」という人権侵害を防ぐために、改めて、変わりゆく司法に注目し、監視し、積極的に提言し、行動していきたいものです。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●恒久法 出てくる背景 阻止する情勢

(弁護士)内藤 功


■福田総理は一月一八日施政方針演説で「テロとの闘いや大量破壊兵器の不拡散問題への積極的取り組み」の文脈で「迅速かつ効果的に国際平和協力活動を実施していくため、いわゆる『一般法』(恒久法)の検討を進めます」と述べた「産経」1・18)。三月二九日内閣記者会インタビューでは「一般法(恒久法)は必要だ。日本の基本的方針を内外に示すことができる。なるべく早く整備すべきだ。だが国会状況を考えると今なかなか難しい。…民主党とどういう話し合いをするかも視野に入れながら検討する」と述べた(「読売」3・30)。自民党は四月一〇日恒久法制定プロジェクトチームの初会合を開いた。今国会での法案提出を目指す。「公明党が出てくるまでのつなぎ」だ。民主党対案にある「アフガニスタン国際治安支援部隊への自衛隊参加」も検討対象としている(「赤旗」4・11)。

■条文がまとまってからの闘いでは遅い。過去幾度の反対運動の教訓だ。去年一一月沖縄那覇市で開かれた日本平和大会では「先制的に」闘いをひろげようという方針案が承認された。二月以降まず憲法会議のパンフ、つづいて日本平和委員会がパンフを作成した。平和委員会パンフは二万部を超え、これを気軽に読み合わせる小集会が広がっている。
 〇七年七月二九日参院選で主権者の下した審判は、ボディブローのようにジワジワと効いてきている。約三ヵ月間だが、インド洋から艦隊が帰投せざるをえなかった。明治初年の建軍以来初めて国民と議会の意向に沿って戦地からの部隊撤退を余儀なくさせた。暫定税率と道路特定財源の根拠法は失効し、ガソリン代が値下げされた。国の主人公の一票は国会議席を変え、イザというときは部隊を撤退させ、悪税をなくす力も秘めている。それを知った学習効果は大きい。

■明文改憲のための憲法審査会は、衆参各院とも運営規程がつくられず始動できない。
 新憲法制定議員同盟は五月一日総理と経団連御手洗富士夫会長を呼んで総会を開き局面を打開しようとしている。資金力と権力も用いての動きは軽視できない。それだけに「9条の会」の広がりと活性化は力強い。集団的自衛権行使に関する政府解釈を変更しようとする有識者懇談会も機能停止である。そこで、局面打開のため、民主党の協力を視野に入れて、海外派兵・武力行使恒久法の制定策動が浮上してきた。

■今まだ審議対象となる恒久法案というものはない。しかし、その叩き台はある。その一つは石破試案(自民党国防部会小委員会作成の案文)だ。六〇ヵ条の条文を読むと、狙いが具体的に見えてくる。派兵の要件を緩くし、国連決議がなくとも加盟国の要請で派兵できる。要請がなくとも、日本政府が必要と認める場合も派兵できる。アーミテージ元国務副長官が言う「簡単な通知で展開できる柔軟性をもつパートナー」の勧告にこたえる内容だ。派遣部隊の行動については、安全確保活動、警護活動、船舶検査活動が具体的に詳細に規定される。
 今米軍、多国籍軍が、イラク、アフガニスタンおよびインド洋アラビア海ペルシャ湾で実施している掃討作戦、海上阻止作戦最前線にまで自衛隊を参加させようとする法案だ。

■米兵の相次ぐ凶悪犯罪は、大義なき侵略戦争に参加している軍人の道義的頽廃が急激に進行していることを示す。自衛隊の若者が恒久法で戦地に出されたら米兵とおなじ道を歩むことになる。漁船のほうで避けるだろうと交通輻湊の海域に自動操舵で漫然直進したイージス艦の事件は、恒久法ができたら、軍隊優先国民軽視が一層まかり通ることを予期させる。海外派兵恒久化に伴う彪大な軍事予算は国民負担増に転嫁される。軍事費削って暮らしにまわせの要求が今ほど切実なときはない。恒久法の試み自体を断念させる客観条件は充分にある。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

アッチャン参上

弁護士:橋本 敦先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

977.8.3参議院法務委員会。選挙後初の委員会に出席した宮本顕治委員長。隣が若き橋本先生。

 橋本敦先生は一九二八年大阪市田中町生まれで豊中育ち。今年八〇才になるのに、えっと思うほど若くて元気。旧制府立浪速高校から京都大学に行った。父親は工場の支配人、サラリーマンの家庭だった。先生が長男で下に妹二人弟一人。
 「豊中の克明第一小学校、五・六年頃の橋本君は、アッチャン、アッチャンと親しまれ明るく快活な元気者であった。相撲が強く、走るのも選手、ゴンタ仲間の大将。校庭で日が暮れるまで遊んでいる子どもたちを見つけ、『早く帰って勉強せよ』と叱ると、たいていその中に橋本君がいた。黙ってほっておくと成績は八〇点余り、『こら、しっかり勉強せよ』と言うと、次は一〇〇点をとっていた。友達に対して思いやりが深く、病気や家庭の事情で休んだり、新しく転校してきた生徒などに、宿題や勉強の手伝いをしてやっていた。正義感が強く、いつもいじめられっ子の味方であった。自分がやらねばならぬと一度きめるとどんなにつらくてもやりきる意志の強さと男気があって」担任の小路輝一先生はその成長を楽しみにしていた。アッチャンはほんとにその通りになった。
 が、「私の小学校時代は『一億一心火の玉』になって戦争に進め」「入学した時の教科書は『ススメススメヘイタイススメ』、毎日歌わせられた歌は『キョウモガッコウニユケルノハヘイタイサンノオカゲデス』といった有様であった。そして、毎月教師に引率されて近くの神社へ出征兵士の武運長久と戦勝祈願のために参拝させられた」。教育勅語は全文暗記。天長節や紀元節には「講堂に全校生徒が集められ、身じろぎひとつ許されない緊張と直立不動の姿勢で整列する中を、校長は校庭の奉安殿から桐の箱に入った教育勅語を厳かに持ち出して、白い手袋をした両手で目上の高さに捧げ持ち、壇上に立つや、まず宮城の方向にうやうやしく深く礼をした後、その勅語を全校生徒に厳かに読み聞かせた」。
 一九四一年、卒業まで首席で級長のアッチャンは、当時の府下の小学校の最優秀児だけが行くと言われた旧制府立浪速高校尋常科に進学。その年に太平洋戦争が始まり、戦争の時代は最終章に突き進んでいた。のんきに勉強なんて言っていられない時代だったのに浪速高校はちょっと違っていた。「海兵陸士に行くんだったら学校を辞めてからにしなさい」校長が言う。「戦争はいつか終わる。その時に兵隊さんだけでは国は作っていけない」と動員先の工場でも英語の授業をやる。敵国語の英語を。軍事教練に行くときは「軍隊は要領が大事。ヘトヘトになるまでやったらあかんで」とくる。そんなことが言えていたことが不思議である。一九四五年三月に卒業、文科に進んだ。そして終戦。「やれやれ終わったか」と敦君は思った。
 そんな敦君でも「それまでの国家体制と価値観が音を立てて崩れ落ちた暗い世相と混乱の社会情勢のなかで、ニヒリズムに誘い込まれていた」。まだ一七才だった。そんなとき敦君は誘われて参加した社会科学研究会で河上肇の「第二貧乏物語」に出会う。その本が敦君の心の「暗闇に」「一条の光を投げかけ」た。「私は、社会が動くと信じているものであり、現代社会は今やまさに大いに動かんとしていると信じているものである。それが何処へ・何故に・また如何にして・動くか。私があなたに語ろうとしているのは、この問題についてである。」河上肇の序文。敦君はこの道を歩き始める。
 敦君は一九四八年旧制京都大学法学部に進学。入学時の面接は大学に復帰した瀧川幸辰法学部部長だった。優秀だった敦君に「学問の道、研究者にならないか」と勧めたという。残念でした。その年に敦君は生活を支えるため、疎開先の兵庫県三田にある三田学園の英語の教師になってしまう。「質実剛健・親愛包容」の中高一貫の男子校であった。浪高で学び続けた英語はお手の物である。橋本先生の授業は、厳しいけど楽しいものだった。クラシック好きの先生は蓄音機持参で学校に行く。ちゃんと勉強すると後は音楽鑑賞。まだ二〇才の先生はまあみんなの兄貴分だった。
 先生は「試験の時だけ大学に行って」単位を取得、四年で大学も卒業してしまう。どうしてそんなことが出来たんだろう。橋本先生は大学卒業後も三田学園の教師を続けていたが、もっと広い場で社会変革をめざすという想いを捨てきれなかった。司法試験を受けることを決意し猛勉強を始め一年後の一九五四年試験に合格する。さすがの橋本先生も昼は教師夜は勉強の無理がたたり健康を害し二年間の療養生活を送らなければならなくなる。修習を終えて大阪で弁護士を始めるのは一九五七年、九期である。 
当時は弁護士の数は少なく吹田事件・菅生事件などの大弾圧事件、各地で起こった日教組勤評反対の大闘争、全逓中郵事件など公務員関係や民間の労働事件の数々、猛烈な活動ぶりだった。
 一九七〇年から黒田革新府政を勧める会の事務局長、そして一九七一年大阪市長選の革新共同候補となってしまう。自分では弁護士こそ天職と思い現場で闘い続けるつもりであったのに。悩んでいた橋本先生に大先輩の毛利与一先生は「毎年新しい優秀な弁護士が出てきている。橋本君がおらんでも大丈夫や」橋本先生は絶句した。毛利先生はその能力を見抜いていたんです。
 一九七四年に大阪地方区から参議院議員に初当選してから六期二四年間参議院議員を勤めることになる。この間の活躍ぶりは周知のことである。ロッキード事件、金大中事件等での訪米調査は得意の英語と周到な準備、卓越した聞き取りなどで橋本先生の独壇場だった。もちろん鋭い質問や論戦、国対委員長など院内の要職も務めた。引退出来たのは二〇〇一年七月だった。「強靱な神経と体力」が要求される国会議員を七三才まで勤めるのは容易ではない。
 事務所に戻って七年。妻美知子さんは医者である。公衆衛生学が専門で長く大学で教鞭を執っていた。共働きで男の子が二人。次男には「あんたに育ててもらたわけじゃない」と言われる忙しさだった。「今は少し時間がとれ妻とコンサートに行けるようになった」とうれしそうな先生である。
 日曜日の北大阪事務所。しーんとしている。机の上には先生がいれてくれたコーヒーと周到に準備された資料がある。先生は「うんうん」とうなずきながら私の話を聞く。「遠いところをよく来てくださいました」。何でも相談したくなる先生である。
 先生は「いよいよ今年は八〇老いの坂、九条まもれの旗をかついで元気に歩く」

・橋本 敦(はしもと あつし)
1928年大阪府生れ。51年京都大学法学部卒業。57年弁護士登録(9期)。総評弁護団常任理事、日教組常任法律顧問、民主法律協会幹事長などを歴任。74年参院選(大阪地方区)で日本共産党公認で初当選。以後当選4回。2001年北大阪法律事務所に復帰。著書「労働裁判─判例の理論と実務」(共著)、「働く者の労働法」「政治街頭活動問答」「教育労働者の権利」いずれも労働旬報社。


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