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 法と民主主義2007年8・9月号【421号】(目次と記事)


法と民主主義8・9月号表紙
★改憲・新自由主義に抗して─闘いの展望はここに 第46回定時総会記念シンポジゥムから
特集にあたって……編集委員会
■記念講演
◆改憲・新自由主義に抗して─闘いの展望はここに……渡辺 治
■私たちは、斯く闘う
◆自由法曹団の改憲阻止に向けた取り組みについて……今村幸次郎
◆「公共の福祉」から「公益」・「公の秩序」への転換……大久保賢一
◆9条の実現は国際連帯で……笹本 潤
◆改憲反対と新自由主義反対の連結の具体的実践を重ねて……笹山尚人
◆労働者の権利を剥奪する新自由主義のイデオロギー……堀 浩介
◆市民運動の拡がりに法律家のより深い関わりを……海部幸造
  • シリーズ●若手研究者が読み解く○○法N「中国法/香港法」選挙と法解釈─香港行政長官・立法会の普通選挙をめぐって……廣江倫子
  • 連続掲載■9条世界会議をめざして──A「9条」を堅く守り、平和を維持しよう……林 暁光
  • 判決・ホットレポート●ブルドックソース対スティールパートナーズ 最高裁決定─多数決原理の限界……山中眞人
  • とっておきの一枚●弁護士 石松竹雄先生……佐藤むつみ
  • 司法書士からのメッセージR● 東京地裁民事第20部の「運用」の是非を問う……後閑一博
  • 税理士の目L●それでも続く理不尽な税制「改正」……奥津年弘
  • 連載・軍隊のない国家S●セントクリストファー・ネヴィス……前田 朗
  • 司法改革への私の直言B●司法改革は司法積極主義をもたらしたか……神戸秀彦
  • 投稿●改憲手続法はそれ自体が憲法を否定する悪法……清水 誠
  • 追悼●松尾高志さんを悼む……渡辺 脩
  • 書評●グローバル9条キャンペーン編『5大陸20人が語り尽くす憲法9条』……澤藤統一郎
  • 書評●伊佐千尋著『オキナワと少年』……北野弘久
  • 書評●憲法フェスティバル実行委員会編『憲法くん出番ですよ』……小林善亮
  • 時評●参議院選挙の結果を読む─われわれ法律家の役割……鳥生忠佑
  • KAZE●先走った監視・規制強化を憂う……有村一巳

 
★改憲・新自由主義に抗して──闘いの展望はここに

特集にあたって
 今年は、憲法施行六〇年。しかし、安倍政権は、昨年は教育基本法の改悪に手を染め、先の国会では改憲手続法を充分な議論もつくさぬままに強行採決し、なりふり構わず改憲への道をひた走りする一方、格差社会を助長し、福祉を破壊し続けています。
 七月の参議院選挙における自民党の歴史的惨敗は、こうした安倍政権の政治姿勢に対する痛烈な国民の審判であったと言えます。にもかかわらず、安倍首相は政権の座にしがみつき、内閣改造で国民の批判を躱そうとしたものの任命大臣などの不祥事の発覚で、更に窮地にたたされています。しかし、安倍政権をはじめとする改憲勢力は、改憲への野望を、若干戦術を変化させつつも決して捨て去ってはいません。
 このような時代に立つ法律家として、市民として、何をなすべきか! 協会の定時総会(二〇〇七年六月二八日・東京にて開催)では、一橋大学の渡辺治教授による「改憲・新自由主義に抗して─闘いの展望はここに」と題する記念講演が企画されました。
 講演のなかで、渡辺教授は、改憲勢力の背景にあるもの、安倍政権の明文・解釈の二本立て改憲戦略、安倍政権の新保守主義瀬路線の背景、安倍政権の担い手と支持基盤、その矛盾点と弱点、そして私たちの改憲阻止のための戦略について、明快に分析されました。
 講演の内容は、参議院選挙後の情勢を分析する上でも極めて有効なものと思われます。そこで、今特集では、この渡辺講演を中心に据え、加えて、法律家諸団体の事務局長の方々に、それぞれの団体の課題と結びつけながら、いかにして改憲阻止の国民運動を構築していくのか、記念講演の感想とともに、その闘いへの展望と決意を語っていただきました。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●参議院選挙の結果を読む──われわれ法律家の役割

(弁護士・日民協代表理事)鳥生忠佑


 一 参院選の結果と主権者の期待
 参議院選挙の結果は、「自民党の歴史的大敗」と「自・公政治の拒否」を示すものとなった。しかも同時に、民主党の政策が優れているので民主党を「大勝」させたのではない、ことも明らかにした。
 この意味では改めて、なぜこうなったのか、原因を探る必要がある。それは、過去一〇ヵ月間の安倍内閣とこれまでの自・公政治に対する主権者の「憤りと怒り」にある、と考えるのが最も的確であろう。
 そうであれば、今回の参院選の結果は、今日までの日本の政治史にもない異例の選挙であり、国民各層の憤りと怒りが爆発した結果は、「新たな政治」への期待とその幕開けを求めるもの、といえよう。
 事実、参院選後のNHKの世論調査は、安倍首相の続投に四〇%が「反対」であり、「賛成」の二五%を大きく上回った。内閣改造についても、行われる前から「期待しない」が五三%と過半数を示している。この結果からも、世論の動向は、安倍首相の早期退陣を強く求めていることが明らかである。

 二 居座りが意味するもの
 参院選の結果は、新たに、民主党を中心とした野党が過半数を獲得した。
 わが国の議会制度は、憲法上一部に衆議院の優位があっても、衆議院と参議院の権限のうえでは差のない、いわば単純な二院制度である。しかも、参議院議員の任期を二つに分けたことにより、衆議院議員の任期中に参議院選挙が到来し、その選挙結果によっては、衆議院の行き過ぎに撃肘を加えることができる制度となっている。この参議院制度のもとでは、衆議院と参議院が今回の如く与野党が過半数を分け合い、相対立する状況となった場合には、内閣の政権維持が困難になることは明らかである。したがって、これまでの歴代の内閣は、かかる場合には総辞職によって参議院のもつ役割に応えてきたのであった。
 安倍首相と安倍内閣の居座りは、「参院選は政権選択の選挙でない」との理由からでは許されず、自滅のおそれもある。
 世論の動向も、内閣改造後の八月二八日の朝日新聞の世論調査結果は、安倍改造内閣を不支持とするものがNHKと同じく五三%と過半数を超えており、支持するもの三三%を大きく引き離している。

 三 安倍内閣の今後の改憲動向
 国民が安倍首相の居座りに強く反対しているのは、年金、政治とカネ、所得格差をはじめとする構造的な政策問題に対するとともに、それらの基本にある十数回にわたる強行採決、そしてとくに「戦後レジュームからの脱却」の言葉に象徴される憲法「改正」に執着した危険な姿勢に着目しているからにほかならない。
 しかし、安倍首相の改憲にかける執念は変わらない。安倍首相は参院選前にはじめて、改憲の内容に触れ、「憲法改正は自民党草案で行う」と明言したが、これはこれまで草案前文と九条の修正を求めていたのを断念し、今後の改憲作業において民主党により近づくことを考慮した戦術から出たものである。
 自民党草案は、今回の内閣改造で入閣した右翼の多くの派閥の長がこれまで一致して、推進してきたものである。また、自民党草案を最終的にまとめるうえで中心的役割を果たした舛添要一氏が今回入閣した。これらの点からみれば、今回の改造は、安倍首相の周りをこれまで以上に、自民党草案による改憲の線で固め直したものということができよう。
 二〇一〇年までに憲法審査会において改憲骨子案の策定、二〇一一年までに国会での発議、同年中に国民投票と、自民党内で改憲スケジュールが合意されているが、これを推進することに警戒を要する。
 われわれ法律家は、改憲の根絶しをめざして、あくまで安倍首相と安倍内閣の退陣を求めていく必要があると考える。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

飄々と走り続ける

弁護士:石松竹雄
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1943年。旧制五高のプールサイド。五高水泳部佐川敏明君と。胸に「5」のマーク、水着がクラシックである。先生は泳げるし走れるしアイアンレースができるんじゃない。

 日比谷公園の松本楼のロビーで五時に石松先生と待ち合わせた。六時三〇分から現代人文社から出版される「えん罪を生む裁判員制度─陪審裁判の復活に向けて」の出版祝賀パーティーが開かれ、石松先生は執筆者の一人として参加することになっている。一九二五年まれだから八二才である。
 一九九〇年三月に大阪高裁判事を定年退官した。裁判官として四〇年。初任地は大阪。その後東京と釧路に勤務した六年をのぞいて三四年、数年間神戸地裁に在職したほか大阪で裁判官の仕事をした。第二の故郷大阪、そこで先生は弁護士となった。
 多くのえん罪事件の弁護人を引き受け、退官後の方が忙しいほどである。講演や原稿の依頼も多く、何処にでも身軽に出かけ飄々と頑固に思うところを実に率直明解に述べる。博識、深い知識と洞察力で「刑事裁判の改革」をめざして倦まず弛まずの弁護士生活は一七年になる。
 その日も大阪で仕事をしてから上京し、東京駅でひとつ用事を済ませて時間前にロビーに現れた。足もと軽く、ひょんひょんと歩いてくる。小柄で贅肉なし。きっと生き方も贅肉なしね。小さな目がメガネの奥で動く。親戚にいるでしょう石松じーちゃんタイプ。東京帝国大学を卒業して裁判官を四〇年も務めたえらい人とは思えない。権威権力から遠く、偏屈さも気むずかしさもない。石松先生が話すとすべてのことが裏の畑の出来事のようである。
 「うちのばあさんには『あなたの電話は相手が高裁長官でも、運転手さんでもいっしょ。だれと話をしているのかさっぱりわからない』とよく笑われました」きっと法廷でどんな被告人と向き合うときでもいっしょなのだ。公安事件だろうが累犯窃盗事件であろうが石松先生にとってはすべて人は同じ、自分もそこに座っていたかもしれない存在なのである。人を裁くことの傲慢さから無縁の人である。もちろん反骨の人だが健やかで土の匂いがする。すべての事象を慈しむような暖かさである。
 石松先生は一九二五年に大分県中津の近郊で生まれ、父は教師。兄と姉妹がいる。祖父石松勝一は西南戦争直後に起きた土佐立志事件に連座し一年の禁獄刑を受けたという。そこに婿養子に入った父義雄の夢は弁護士だった。
 畑仕事が大好きで肉体労働派だった竹雄君は父の薦めもあり旧制五高の文科に進むことになる。旧制高校時代は水泳部、写真のように胸に「5」のマークを付け自由形でがんばっていた。先生は小柄ではあるがそのころから運動好きである。
 一九四三年、太平洋戦争が悪化、旧制高等学校が二年半に短縮され、竹雄君は一九四三年一〇月、父の希望通り東京帝国大学の法学部に入学する。翌四四年までは何とか講義に出られたがその後は大船の水雷工場で勤労動員となる。一九四四年一九才で徴兵検査を受けるがなぜか召集が遅れ一九四五年七月終戦直前に下関の高射砲連隊の照空隊に配属される。高度一万メートルから侵入してくるB29になすすべもなく「遊んでいたようなもんです」。そこで終戦を迎える。
 大学に戻るがとにかく卒業を急がされ必要履修一八科目を兵隊に行っていたものは一三科目で良しとされた。「食うに困っていたこともあってばたばたと勉強して四六年九月に卒業した」卒業式で南原総長は「諸君は大学で勉強する機会には恵まれなかったが、得がたい社会経験、人生経験を積んだはずである」と述べたという。そんな時代だったんだ。
 勤めながら高等試験司法科を受けるつもりで東京区裁判所検事局の嘱託となる。GHQが設置した裁判所で「進駐軍の物資を不法に所持した犯罪などを処理していたのですが、僕は日本人の検事の下で英語の起訴状を書く仕事の手伝いなどをしていた」。四七年司法科試験に合格し二期の修習生となる。
 検事になろうか弁護士もいいかなと迷っていた石松先生だったがある裁判官との出会いで裁判官の道に進むことになる。「一方に闇市という現実があるなかで、法を守り闇を罰する裁判の仕事は正直言って気が進みませんでした」。
 それが網田覚一裁判官である。大阪地裁の名物裁判官。「助けてくださいアミダさま」拘置所で歌われていた人である。石松修習生はある統制法違反の法廷を傍聴する。被告人に対して「おまえの同業者はみな闇をやっとるか」「はいみなやっております」「みな捕まるか」「いえ、捕まったのは私だけであります「君、人づきあいが悪いのと違うか」「そうでもないと思いますが」「これからは、見つからんように闇をやれよ」磊落な口調の網田裁判長。下す判決は「執行猶予付きの罰金」石松修習生は「これなら闇米を食べながら裁判ができると思った」。網田裁判官は一見乱暴な物言いはするものの読書家で裁かれる側のいたみに敏感な裁判官だった。そして「刑事裁判官の仕事はいかに被告人の無罪を発見するのかが大事だ」肝に銘じている人であった。一三年後石松先生は大阪地裁で網田部長の部に入ることになる。大変感覚の鋭い裁判長で「あ、この起訴状はおかしい。これは無罪にできるぞ」なんて言う。そんな事件は、結局合議の上無罪になることが多かったように思うという。
 ご存じの通り石松先生は「あれる法廷」で「大阪方式」を守り通し、裁判官として司法反動にも一歩も譲らず戦った。「私は、非常にぼんやりしたところがありまして、刺激に対する反応が遅いのが特徴であります。外から見ますと、世俗にこだわらず飄々としているように見える場合もあるようですが、そうではなく実際に鈍なのであります。」なんて言う。が、だまされてはいけない。「弱者を救済することが司法の本質」「裁判官の資質にとって重要なのは『被告人である人間に迫る洞察力』」といいきる。この揺るぎない強さが「鈍」なのである。
 石松先生は今でも一ヶ月に一五〇キロを走るベテランランナー。マラソン歴は四五年を超える。登山も趣味。畑もやっていた。超人です。普通のことのように続けている。「判事補任官早々に肺結核を患って一〇年近い安静生活を余儀なくされ、少し元気になったかと思ったのもつかの間、釧路に在勤中左足首を骨折した。もうスポーツを楽しむこともできまいと諦めていた。せめてハイキングぐらいはという欲求を抑えることができず……早速自宅の庭に一周三〇メートルばかりのトラックを作り、この豆トラックをてくてく走っては、暇を見て近郊の山歩きを楽しむことにしていた」
 「刑事裁判の空洞化」「裁判官は本当に裁いているのか」「日本の裁判官はなぜ血の通った判決を書けなくなったのか」
先生が書き述べていることはすべてその通りである。
 情けないが私たちは先生に追いつけていないのである。

・石松竹雄(いしまつ たけお)
1925年大分県宇佐郡生れ。1946年東京帝国大学法学部卒業。1948年司法修習生(2期)。1950年4月大阪地裁判事補、釧路地裁判事、大阪地裁判事、司法研修所教官、大阪地裁判事(総括)を経て、90年大阪高裁判事(総括)で定年退官。現在、大阪弁護士会弁護士。えん罪事件を担当し、刑事司法について著作も多い。「刑事裁判の空洞化」(1993年、頸草書房)等々。


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