「法と民主主義」のご注文は注文フォームからお願いします

 法と民主主義2007年5月号【418号】(目次と記事)


法と民主主義5月号表紙
★特集T 労働法・労働法制をめぐる変容
特集にあたって……編集委員会
◆労働基本権の敵対物としての規制緩和……佐藤昭夫
◆労働法制「崩壊」の過程……今村幸次郎
◆偽装雇用問題……脇田 滋
◆労働時間法の変遷とその問題点……鴨田哲郎
◆労働現場における思想差別、組合運動への攻撃……菊池 紘
◆最高裁判例法理と労働契約法案……深谷信夫
◆「労働運動再編」と「新自由主義改革」─労働法破壊の背景……丸山重威
★特集U 実態から見通す少年法第二次「改正」問題─いま、必要な視点は何か─
■特集Uにあたって──少年法第二次「改正」問題の視点……佐々木光明
■福祉的・教育的機能の回復こそ、少年司法に求められている……伊藤由紀夫
■触法・ぐ犯少年に対する警察の調査権問題─奈良県少年補導条例から考える……古川雅朗
■少年の「刑事裁判」のもつ意味─板橋事件から考える……村山 裕
■少年の「刑事裁判」のもつ意味─寝屋川事件から感じたこと……岩佐嘉彦
■触法少年事件をめぐる問題─高田馬場事件を題材として……川村百合
■少年の保護監察と更生保護改革……加藤暢夫
■触法・非行少年にする前に子どもたちを見つめよう……毛利甚八
■矯正ではなく、共生を─児童福祉施設での経験から……徳地昭男
■共謀罪と少年法「改正」……小倉利丸
歴史認識問題─世界からのレポート@●南京事件70周年国際シンポジウム
◆今、なぜ南京事件70周年国際シンポジウムを企画したのか……尾山 宏
◆和解と平和構築のために─南京事件70周年国際シンポジウム各国企画について……南 典男

 
★特集T 労働法・労働法制をめぐる変容

特集にあたって
 「戦後レジームの解体」を叫ぶ安倍首相、「雇用のルールを思い通りに変えたい」とする財界とが、労働法制全般の「改悪」の仕上げに乗り出している。
 一九八〇年末頃から「国際競争に勝つ」ために「労働コスト」の削減を進めて来た財界は、雇用のタイプを@「長期蓄積能力活用型」A「高度専門能力活用型」B「雇用柔軟型」という三つに分類し、労働力の流動化や雇用関係の弾力化によって、企業の利益をさらに図ろうと企ててきた。
 こうした財界の要望に応えて、変形労働時間制や裁量労働制の導入などの労働時間規制の緩和と、雇用の流動化を進める規制緩和政策が推し進められてきた。
 生存すら脅かされる過酷な労働から、「人間らしい働き方」「八時間労働」を求めてきた日本の労働者は、憲法二七条二項によって労働者保護の原則を、憲法二五条一項の規定を受け、「労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」(労働基準法第一条)など法律で定められる基準を獲得してきた。
 しかし、一九九〇年代以降の規制緩和路線の波及により、労働者派遣事業の自由化、裁量労働制の導入、有期労働契約の期限緩和が強行され、労働契約法(解雇の金銭解決・就業規則改定)、ホワイトカラー・イグゼンプション等々が押しすすめられ、働くルールは大きく変容をとげつつある。
 一七〇〇万人をこえる非正規労働者層の形成とその劣悪な待遇は、新たな「格差社会」を生み出している。年収三〇〇万以下の労働者は非正規労働者の九二%(国税庁「平成一七年度民間給与実態統計調査結果」)を占めている。二万五二九六人のホームレス(厚生労働省「ホームレスの実態に関する全国調査報告書)が存在し、「ニート」と呼ばれる若者や、「ワーキングプア」に苦しむ層が大きな社会問題となっている。
 今回の特集では、戦後労働法の崩壊過程と労働法制の変容、ならびにその背景と新自由主義の台頭を、労働法の学者を中心に、労働者とともにその権利のために闘っている法律家による分析のなかから明らかにするものである。
 「労働基本権の敵対物としての規制緩和」について、佐藤昭夫早稲田大学名誉教授に、「労働法制の崩壊の過程」については、今村幸次郎弁護士に。そして近年その増加が問題視されている「偽装雇用問題」については龍谷大学の脇田滋教授による分析を、「労働時間法の変遷とその問題点」については、鴨田哲郎弁護士が、「労働現場における思想差別・組合活動への攻撃」の問題については菊池紘弁護士にご執筆いただいた。最後に、「労働運動再編と新自由主義改革」と題して、丸山重威関東学院大学教授より、労働法崩壊の背景をまとめていただいた。
 今特集でふれられなかった、ハローワークの市場化問題・ワーキングプア・非正規労働者の均等待遇問題をはじめ、労働現場からの悲痛な叫びとともに、展望をきりひらく闘いについての紹介などについては、次の機会に譲ることとする。

 この特集を、二〇〇六年五月号(bS06)の特集「検証濠i差社会」と連繋させて、多くの労働者に届けたい。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●国民投票法成立の要因と課題

(平和遺族会全国連絡会代表) 西川重則

 憲法改正の手続きのために憲法第九六条は、各議院の三分の二以上の賛成が必要である。また国会が発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。
 そしてその承認には、特別の国民投票が行われ、過半数の賛成が必要である。
 以上が憲法改正の手続きとして求められている内容の要旨である。一見、単純かつ明解な憲法改正の手続きと思われるのだが、なぜ大問題となったのか。抽象論ではなく、政治問題として、ある意味では戦後最大の問題のひとつとなり、しかも今後より重大な影響と波紋を全領域に及ぼすと思われているのは、いったいなぜなのか。
 それがまさに最高法規である憲法改正に直結している問題だからである。それでは、それほどの政治問題になった要因はそもそも何だったのか。まずその問題から報告してみよう。
 憲法改正問題を急浮上させた直接の要因は、言うまでもなく、安倍首相が総裁選挙のために三大「公約」を掲げたことにある。「新憲法の制定」、「教育改革」、「首相直属の国家安全保障会議の設置」がそれである。そしてそれらの枠組が「戦後体制(レジーム)からの脱却」である。
 「新憲法の制定」と言い放った後、更にその具体化をめざし、安倍首相は「憲法改正を私の内閣でめざし、参院選で訴える」と公然と発言し、しかも首相としての権力をフルに行使し、ついに第一六六国会において憲法改正手続き法の成立を与党の至上命題と位置づけた。
 国会傍聴を続けている私の目には、首相の厳命が次のような変化となって写った。
 衆院憲法調査特別委員会(中山太郎委員長)において与党と野党第一党の民主党との協調路線が崩れ、結果的に、国民投票法案賛成(自民・公明)、反対(民主・共産・社民・国民新党)となり、四月一二日(水)、傍聴者の私には何が行われているかわからない混乱状態で「可決」された。
 いま、なぜ、という疑問を残したまま、翌一三日(金)、委員長の「可決」の報告、与党の万来の拍手のうちに衆院本会議も「笑いのファシズム」そのままに、「可決」となり、参院は四月一六日(月)、の「趣旨説明」、質疑、そして翌日から集中審議となり、五月一一日(金)、憲法調査特別委員会(関谷勝嗣委員長)は与党の多数派賛成「可決」、五月一四日(月)、ボタン方式で、一分で「可決」。投票総数二二一、賛成一二二、反対九九。散会、一一時五五分。これが戦後六二年、憲法施行六〇年のはだかの国会の現状である。
 何が問題か。国民投票法は、国民投票の対象、期日、投票権者、広報協議会、投票方式、投票運動、訴訟制度、国会法の一部改正、実施などから成っている。問題は多岐にわたるが、施行時期は三年後と言われながら、成立(五月一四日)後、直ちに問題になるのは、両院の憲法審査会である。改憲案の調査・審査が公然となされ、衆・参が合同で協議することが当然視されているし、しかも常設となることも十分に予想される。
 また国民投票法では、国会法の一部改正の名の下に、両院の独立性が軽視され(憲法第四二条参照)、会期不継続の原則と言われる憲法第五二条も無視され、合同審査会が当然視され、更に閉会中も恒常的に常設機関として、事実上早期の明文改憲の憲法改正「特別」委員会となる可能性がある。
 最後に、あえて成立の要因と課題を述べたい。憲法調査会の設置そのものが、「初めに改憲ありき」の政治姿勢にあった。そして安倍首相の厳命に従い、与党の国会議員が、悪しき多数派の論理を優先し、本来中立たるべき国民投票法を政治問題化したことにある。改めて法の支配に基づく戦いを始めよう。
 平和と民主主義を大事に思う多くの国民とともに、改憲の発議を阻止する大きなうねりをつくりあげたい。
(にしかわ しげのり)


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

沖縄の「オジイ」になる日人生の楽園はどこに

弁護士:金城 睦
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1996年、沖縄式の結婚衣装のふたり。ご先祖様に誓う形の儀式。この天真爛漫さが睦先生の信条でしょうか。還暦近い花婿殿です。

 金城睦先生は今年七〇才になる。「感性豊かなみずみずしい人」妻久美子さんといつでも何処でも一緒である。もちろんこのインタビューもおふたり一緒。睦先生のとなりで久美子さんは透明感がある不思議な雰囲気で座っている。
 二人の結婚はちょっと有名である。睦先生は「結婚も離婚も再婚もしました」と公言しているとおり、もとのパートナーはあの金城清子先生。一九九五年に離婚。言い争いから離婚話に発展し、清子先生の「離婚したらどうするの」に対し、「僕は若いすてきな人と再婚する」からいいよとうそぶいたという。清子先生は「あなたがそんなことできるはずがない」と一人になる睦先生を心配した。ところが睦先生の行動力はあなどれない。「鐘太鼓たたいて大募集をかけた」。そして「生まれた環境や歩んできた道がまったく違う私たちなのに、ある日スクランブル交差点でばったり出会い」「人生観や幸福感の違いがお互いの心におどろきを与え」結婚することになる。ふたりの年の差は二五才。久美子さんは長くイタリアにいて研鑽を積んだオペラ歌手。イタリアに居る時のほうが心がのびやかに落ち着くという。沖縄に帰って歌を続けながら暮らしていた。そんなとき睦先生に出会ってしまったわけである。まあいいか。睦先生だもの。
 「弁護士の道を選んだころ、『生くべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために』を座右の銘にしました」。睦先生はそのとおりに生きてきた。ところが「いま、『愛する人とともに、愛する人のために』という至極平凡なフレーズも心に響く思いです」「リクツ屋・合理主義者の堅物人間が」こうなったわけである。何とも正直で初々しいふたりである。ふたりの結婚披露宴は一九九六年二月那覇で行われた。参加者は五〇〇余名、分野別にゾーニングされた座席が二人の人間関係の広さを表している。それから一一年、ふたりはともに支え合い人生を生きてきた。還暦から古稀まで睦先生はなんだかもう一度人生の青春期を生きてきたようだ。
 睦先生は一九三七年、沖縄の首里で生まれた。実家は醤油・みそ作りの工場を経営していた。日本は戦争の時代。小学校入学は四四年、四四年には沖縄戦が始まる。睦君はその年の七月には本土に疎開していた。沖縄に帰ったのは四六年。小学校三年の時だった。沖縄は一面の焼け野原で船から下りるときDDTをかけられ町には米兵がいた。首里の実家は跡形もなく焼け、テント小屋でしばらく生活した。金城一家両親と子供四人は一人も欠けることなく何とか終戦を迎えられた。
 首里中学から首里高校へ。睦君は勉強は良くできたが「一番は嫌い」という少し複雑な気持ちを持った少年だった。当時の沖縄は本土に比べて教育環境も悪く米軍の支配下という状況の中で睦君は「常にコンプレックスにさいなまれていた」。大学は国費学生として東大法学部に進学した。「学問をして成長したら、沖縄に帰って来て、沖縄のために役に立ちたい」と思っていた。
 原水禁運動やセツルメント運動に関わって学部を卒業後、睦君は大学院に進む。来栖三郎先生のもとで民法を学ぶ。来栖先生は後日「弁護士金城睦礼讃」と題する一文を書いている。「金城さんは、いつもにこやかで人なつっこく、お人好しでさえある。知らない人でも会う人には誰にでもきさくに話しかけ、調子よく語り合う。そしてとても人情的である。金城さん自身が全く庶民的なのである」そして指導教官として「ただ、金城さんに不安があるとすれば、金城さんはあっさりしておられる点である。勿論、それ自体いいことであるが、事件は慎重の上にも慎重に扱って欲しい。幸い、清子弁護士の介添えがあるので心強いが、金城さんに頼んで駄目なら、しょうがないと依頼者が納得するような、弁護士になることを期待したい」と釘をさす。一九七九年のことである。来栖先生に睦先生のその後の活躍ぶりを教えてやりたい。一般事件から社会的事件、弁護士会活動、市民運動から参院選・知事選まで全方位弁護士として沖縄に金城ありと言われたのです。
 その心強い介添え役の清子弁護士とは院生時代に知り合い結婚する。清子先生は学部でトップクラスの秀才。東大法学部卒業と同時に助手に採用され、高野雄一先生のもとで国際法を専攻していた。東大法学部のエリート研究者の卵である。睦先生に出会って清子先生は方向転換し、弁護士となり沖縄の地に金城共同法律事務所を設立することになる。一九六九年である。一九七八年には、清子先生はハーバード大学ロースクールに留学、ふたりの子供(長じて長男は弁護士、長女は医者となっている)を連れての留学だった。沖縄に戻るが、研究者の道を進み八三年に東京家政大学、八九年には津田塾大学の教授となり二〇〇七年四月から龍谷大学大学院(ロースクール)教授。法女性学が研究分野である。
 二〇〇〇年、睦先生は「突如として脳卒中を患い、人間はある日突然死ぬこともあるということを実感として自覚させられ」た。「以来、一人事務所に縮小し、ほとんどの役職も退いて、わずかに憲法運動・平和運動の代表程度のことをやりながら、自分の残りの人生をいかに生きるべきかに強い関心を抱いて日々を過ごしています」。「七年もののうまい泡盛の古酒を床下に貯蔵しているので飲みに来てください」という睦先生。マンション住まいというのに床下なんてあるのかしら。「仕事はしていないので切り売り生活してる」と楽しそうなふたりである。旅行好きで相変わらず世界各地への旅行も多く、沖縄にいるときが少ないくらいである。
 睦先生は自分の人生をよりよく生きるためには「個性の発揮と社会貢献」の二つが大事だと考えてきた。個人的側面と社会的側面、双方を「最大に生かすことが人間としての生きる喜びであり、幸福の本質もそこにあると考えたからです」。スポーツから旅行好奇心のおもむくまま、睦先生の個人的側面は実に豊かで幅広いものでした。すばらしい人生のパートナーにふたりも出会えたことは睦先生の幸運です。もちろん、社会的側面は言うまでもないこと。沖縄の現代史そのものを生きてきたと言える。
 「これまでの人生に特別の悔いはないものの、自分に最も欠けていたこと、内面を見つめること、心・魂の問題があることに気づかされています」。睦先生はこう言う。
 これ以上何を求めるのかと言いたいくらいにすてきな人生である。人生の楽園はたゆたゆと時の流れの中で、沖縄を生きていくことではないだろうか。
 「まいにちいろいろあるさー。うじうじしてもつまらんさ。飲みながら、食べながら、遊びながらゆっくりかんがえるさー」睦先生そういうことでしょう。
 「そうさーね、死ぬ瞬間まで悔いを感じないように。生きている限り死ぬまでしっかり生きぬくことさーね」。

・金城 睦 (きんじょう ちかし)
1937年 沖縄首里で誕生
    国費学生として東大法学部に入学
1965年 弁護士登録(17期) 沖縄弁護士会所属
1986年 第5回沖縄知事選挙に立候補


©日本民主法律家協会