日民協事務局通信KAZE 2007年4月

 問題意識は同じはずだ――司研究集会の司会を担って


 司研集会の司会を引き受けたものの、正直言って不安であった。論点は随分広い範囲に渡るし、状況を考えると、まともに噛み合った議論ができるのだろうか? 何せ、副理事長の澤藤先生の言葉によれば、司法問題の議論状況は次のとおりである。
 「今次司法改革に全面賛成という意見は聞かない。しかし、これにどう対応すべきか。意見は鋭く対立している。一方に、『不十分でも一歩前進のチャンスとして生かそう。そのために、改革の渦の中にはいってあるべき改革を推進しよう』とする立場がある。他方に、『それこそ為政者の補完勢力に成り下がること。司法改悪の共犯者となることを拒否しよう』という立場の対立がある。前者は後者を『怠惰な傍観者としての観念論』と言い、後者は前者を『無原則的堕落』と言う。そして、両者とも、相手を『市民のためにならない』と指摘する」。
 これは凄い。澤藤先生の悩みは海より深そうだ。日民協内の議論ということではなく、広い意味での議論状況であろうが、残念ながらこのまとめはそのとおりなのであろう。何とも救いのない様相であり、暗澹たる思いにさせられる。
 やはりこれではいけないはずだ。本来、方向は違えども思いは同じなのだから、問題意識を共有している同士が互いを叩き合っているのではどうにもならない。弁護士界の議論はいつからこうなってしまったのか。残念ながら重要な場所の重要な意思形成過程で、信頼関係を傷つける間違った組織運営が重ねられたのが原因だろう。おそらく「丙案」問題まで遡るのだと思う。
 司研集会での議論も、当然予想どおり厳しい見解の対立があった。しかしこれも予想したとおり、「怠惰だ」「堕落だ」とばかりに罵り合うような場面もなかったと思う。他方、この件で「何の不安もない、問題はない」という論者は信用できないし、何も任せられないのだが、今回の集会ではその手の意見もごく少なかった。
 原則論と現実論は相互に補完的でなければならないはずだ。原則論者は現実論に耳を傾けて理解を深めるべきであり、現実論者は原則論を自己のための支援と捉えなければならないと思う。そして目的は自説の優越ではないのだから、闘う相手は他にある。私たちは、信頼関係を取り戻し、歯車をかみ合わせなければならない。当日の澤藤先生のまとめは、かろうじてそうした展望を示したいという思いを感じさせた。
 制度は既に改変され、問題は多けれど、事件は毎日起き裁判は明日も続く。そして、今後数年が経ち、両者それぞれの努力についに疲れが出たときが正念場ではないのか。その時のためにも。
 進行・整理がうまくない司会で、論者に十分な発言の機会を確保できなかったことが申し訳ない思いである。また来年は、一人の参加者として考えを深めたい。

(弁護士  米倉 勉)


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