法と民主主義2005年11月号【403号】(目次と記事)


法と民主主義11月号表紙
★特集★NHK番組改変問題から見えてきたもの──日本のジャーナリズムを検証する
特集にあたって……編集委員会

■第1部■NHK番組改変問題の本質
◆NHK番組改変問題の本質─「受け手」の立場から……右崎正博
◆番組改変問題が問う報道の自由と自立……田島泰彦
◆NHK番組改変問題が問うこと……梓澤和幸

■第2部 すり替えられた本質 「NHK問題」から「朝日問題」へ
◆経過を追って、問題点を明らかにする……杉浦ひとみ
◆「女性国際法廷」とは何であったか──何が、なぜ、消されたのか─……西野瑠美子
◆対NHK訴訟から見えてきたもの……日隅一雄
◆政治介入の典型を報じたが不祥事続発にたじろいだ朝日……原 寿雄
◆“敵”を見抜けないメディア……飯室勝彦
◆調査報道に録音は許されないのか……辰濃哲郎

■第3部 NHK批判の手段としての受信料支払拒否
◆受信料制度の崩壊と新放送法の必要性……服部孝章
◆受信料支払い停止運動の論理と有効性……醍醐 聰
◆報道番組に対する国会議員等の介入問題を視聴者の立場から裁判で追及しよう……阪口徳雄
資料

 
★特集●NHK番組改変問題から見えてきたもの──日本のジャーナリズムを検証する

特集にあたって
 報道の自由・自律は民主主義を成り立たせる基盤として不可欠である。ジャーナリズムは、権力から独立して権力を監視し、その圧力に屈することなく果敢に国民の知る権利に応えなくてはならない。
 二〇〇五年一月一二日付「朝日」で、私たちはNHKが自民党筋からの圧力に脆弱な体質を持っていることを知った。そして、その事態をもたらしている構造的な問題点を認識しなければならないことも。こうして、まず「NHK問題」が浮かび上がった。
 戦時性暴力を扱ったETVの番組については、右翼の蠢動が先行した。慰安婦問題は皇軍の恥部であって、大東亜戦争肯定論の立場からは触れてはならないタブーである。しかも、「天皇有罪」の判決が民族派右翼にとって許し難いと映った。その動きを承けて、自民党筋の右派が、なかんずく安倍・中川らの議員動き出す。彼らも教科書から慰安婦問題を駆逐する歴史修正主義に血道をあげていたのだ。番組改変はこのような事態で生じた。
 このままでは、NHKは再び大本営発表の伝声管になりさがる。NHKに猛省を促さねばならない。その運動手段としての受信料不払いも検討され呼びかけもなされた。
 ここまでは「NHK問題」だけが認識されていた。朝日は、権力に対する監視機能をよく果たし、私たちは朝日の報道を評価し声援を送った。ところが、すこし風向きがおかしい。一〇月一日付の朝日記事は「取材の甘さを反省」という大見出しを付けた。九月三〇日における朝日社長の記者会見では、社内資料流出問題でことさらに「謝罪」までした。朝日の側からこの問題に手打ちをしようとの姿勢が見える。ことは重大。国民の知る権利にかかわる大問題である。日本のジャーナリズムの今後を占う事態でもある。市民の立場において、こんな幕引きは許せない。「朝日問題」の浮上である。
 いやそれだけではない。他のメディアはどうしたのか。まるで対岸の火事を見るごとく傍観していることが解せない。朝日の取材を後追いし、検証するメディアが輩出しないのはどうしてなのか。天皇有罪、天皇の戦争責任追及、慰安婦問題は、右翼のタブーというだけでなく、日本のメディア全体のタブーなのか。
 私たちは、この時期に、あらためてNHK番組問題を検証することの必要性を痛感して、本緊急特集を組んだ。もう一度、経過を冷静に見直して、そこから見えてくるものをさぐろうという企画である。NHKだけでなく、朝日を含むメディア全体の問題点が見えてくる。
 朝日自身の詳細な報道においても、また月刊「現代」九月号に掲載された魚住昭氏の「『政治介入』の決定的証拠」によっても、安倍・中川の両氏が、事前にNHKに圧力をかけたこと、NHKが圧力に屈して番組を改変したことは明瞭である。この特集の立場は、改変圧力の対象となった原番組の正当な評価を不可欠とするものである。いったい、安倍・中川らの右派政治家にとって不都合な番組とはなんであったのか。それを明らかにするところから出発しなければならない。そして、言論・報道の自由とは、権力の憎む内容をもったものにこそ保障されなければならないという、自由の本質についての基本を確認しなければならない。
 そのような意味で深刻な「NHK問題」は、権力と切り結ぶ姿勢に揺らぎを見せた「朝日問題」となり、これを傍観してジャーナリズム本来の使命を忘れているかに見える日本のジャーナリズム全体の問題となっている。
 さらに、法律家読者の関心に応えて、NHK批判の手段としての受信料支払い拒否問題を取りあげた。
 本特集は、気鋭の論者によって、ジャーナリズム論としても法律論としても、読み応えあるものとなったと自負している。願わくは、憲法とともに、ジャーナリズムも受難の時期を乗り越えて、健全な再生のあらんことを。本特集が、その一助となることを願う次第である。

(「法と民主主義」編集部)



 
時評●9条支持する声を固め広げる運動を

憲法会議事務局長 川村俊夫

 来月一六日当協会の四四回定時総会が開かれる。戦後六〇年を目前にして、憲法「改正」の具体的なプログラムが進行しつつある中での総会である。
 衆参両院の憲法調査会が、五年余に及ぶ「調査」を終えて、最終報告書を各院の議長に提出して任務を終えた。いずれの憲法調査会も、憲法改正国民投票法案や憲法改正案発議の付託委員会に衣替えをすることが企図されている。自民党は、十一月の党創立五十周年に向けて、挙党態勢での改憲草案作りを着々と進行中である。野党第一党の民主党には護憲の姿勢は望むべくもない。国会内の議席分布においては、護憲勢力は微々たる存在となってしまっている。財界も、海外への軍事力配備を望むことを隠そうともしなくなった。
 それでもなお、一気呵成に憲法「改正」が実現する情勢ではない。戦後六〇年、日本の民衆が培ってきた反戦平和の国民感情、そして憲法意識の成熟は、容易に改憲を許すものではない。改憲勢力も、国民意識の反発をおそれざるを得ない。改憲作業が具体化するほどに、その困難さも際だってくる。「九条の会」活動を典型に、「平和憲法擁護」「近代立憲主義堅持」という巻き返しの運動の高揚があり、目を瞠るものとなっている。
 憲法九条は、満身創痍になりながらも、国民運動に支えられて、よくその役割を果たし続けている。それゆえにこそ、支配層には改憲が必要なのである。改憲は単に「条文を現実に合わせる」作業ではなく、「理念を放擲して、危険な現実を推し進める」効果が企まれている。改憲を許すか、改憲の策動を阻止して憲法を民衆自身のものとするか。歴史的な岐路にあることを痛感せざるを得ない。
 その状況にあって、私たちは法律家運動の分野において、改憲阻止という国民的大運動の一翼を担わねばならない。総会で新たに選出される新執行部の主たる任務は自ずから明らかである。
 当協会は設立以来一貫して、統一戦線組織を標榜している。改憲阻止の一点で幅広く法律家の連帯を作ること、それが当協会が果たすべき当面の最大任務である。
 憲法問題と並んで、司法問題に関しても課題は山積である。
 協会はこれまで、司法の民主化・裁判官の独立・官僚司法の打破、などのスローガンで問題にコミットしてきた。司法制度改革が一段落ついた今、制度運用のあり方について問題提起を続けていかなくてはならない。とりわけ、裁判員制度の導入に伴って大きく変わる刑事司法に関心を持たざるを得ない。どうすれば、被告人の権利や弁護権を後退させることなく、より充実したものとできるだろうか。また、新たな法曹養成制度に人権感覚をいかに注入すべきか。司法支援センターを官の統制から独立させ、どのように国民の利益のために運用すべきか。
 意見の相違ある分野であるが、建設的な議論を重ねたい。
 なお、第四四回定時総会は、「法と民主主義」四〇〇号記念の祝賀会と重なる。そして、第一回の「相磯まつ江記念・法と民主主義賞」の授賞式も行われる。受賞者の記念講演も予定されている。四四回・四〇〇号の積み重ねの意味を再確認して、あらためて当協会の果たすべき役割に思いをいたしたい。
 私事になるが、私は今次総会で事務局長を退任することになる。一九九八年から七年にわたって事務局長の任にあった。この間、三代の理事長を支え、二回の事務所引越も経験した。やり甲斐もあり、楽しくもあったが、長きに失したというほかはない。
 組織が活性化するためには、人事の交代は不可欠である。今後は、事務局長には二年の任期を切っての交代として、その間全力投球できるよう態勢作りをしなければならない。協会員が総力で執行部を支え、任務を分担して手厚い補佐の態勢を作ることも課題である。
 この情勢下当協会の果たすべき役割は大きい。協会活動のさらなる発展を期さねばならない。
 自民党「新憲法草案」が発表された。めざしているのは憲法の一部改正ではなく、「新憲法の制定」だが、焦点はいうまでもなく第九条にある。同時に、新憲法起草委員会の舛添要一事務局次長は、「まず、九条二項と九六条の改正を実現すれば、風穴をあけることができる」と、九六条の改憲発議の要件を「三分の二」から「過半数」に緩和したいと述べている。現行憲法の改正手続きに従っておこなう第一回目の改憲では、民主党との合意実現のために改憲対象を限定せざるを得ない。九六条を改定すれば、自民党単独の改憲発議も可能となり、「今後は毎年でも憲法を改正」できるからである(党幹部、八月二日「読売」)。
 前文は、その「新憲法」の全体像を示すものとして注目されてきた。「草案」からは、さすがに「日本国民は、古より天皇を象徴として戴き」といった、中曽根・前文起草小委員長が提起したむきだしの復古調は姿を消した。しかし、これまで「自民党らしさ」をうちだす要件とされてきた@自主憲法の制定、A天皇制の維持、B愛国心、C国防の義務の強調という要素は、すべてちりばめている。これが「新憲法」の基調となっている。
 まず前文案では、「国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」しなければならない、と「新憲法」の国家像を示している。国民は国の主人公ではなく、これを「支え守る」立場におかれる。「支え守る」ことの具体的な内容には、まず国防の義務、愛国心がある。それは九条の改定と対応する。さらには、税や社会保障費などの負担がある。地方自治の規定のなかでは、「役務の提供をひとしく受ける権利」とあわせ、「その負担を公正に分任する義務」が規定されている。基本的人権のすべてに「公益及び公の秩序」を優先させていることも、「国」を「支え守る」ことの内容となろう。これらに強く流れているのは、権力の行使を拘束する憲法ではなく、国民を拘束する憲法という近代憲法のは相容れない憲法観でである。
 「草案」の前文はまた、国民は、「国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う」としている。ここには、国連の決議などといった国際法規による制約はなく、現行前文の「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」との前提もない。「世界平和の最良の希望は、全世界への自由の拡大だ」、「必要なら、武力を行使してaわが国と友好国を守る」とイラクへの無法な武力攻撃をおこない、占領行政をおこなっているブッシュ大統領と異なるところはない。これに対応し、「草案」は第九条二項を削除し、かわって「自衛軍」の設置を明記している。たんなる自衛隊の名称の変更やその存在を憲法上認知しようというのではない。自衛軍は集団的自衛権を行使することができ、「国際社会の平和と安全を確保する」ための活動もできる。戦力においても、武力行使の形体においても何の制約も設けてはいない。戦争違法化をめざす国際社会への挑戦にほかならない。
 自民党が「草案」を発表した翌日の二九日、外務・防衛の責任者で構成する日米安全保障協議委員会が、米軍再編に関する「中間報告」を発表した。司令系統や基地使用など日米の軍事的一体化をはかり、日米共同作戦を地球規模で展開するというもので、自民党「草案」とぴったり重なりあう内容となっている。会議に出席した大野防衛庁長官は、「日米同盟の新しい姿だ。一緒に世界平和を築きたい」と語ったが、日米安保は日米共同作戦を「日本国の施政の下にある領域」に限定していることは念頭になく、また憲法九条もまだ改定が決まったわけではないことを失念しているかのようである。
 かりに改憲派が国会で多数を占めていようとも、世論調査では九条改憲賛成は三〇%しかなく、改憲反対が六二%にのぼる(「毎日」十月五日)。九条を守りたいとするこの国民の意思をより強固なものに、そしてより大きなものにしていくことが、今日の改憲の企てに「風穴をあける」ことになる。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「政治家」父と息子の軌跡 北の国から

弁護士:佐々木秀典先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1971 年。当時の青年法律家協会の面々。若いこと若いこと。なんの相談でしょうか。右から、高山俊吉事務局次長、中村仁事務局次長、鷲野忠雄事務局長、佐々木秀典議長、佐々木恭三副議長、高木壮八郎副議長、宮地義亮事務局次長。(肩書き・青法協内での当時の役職) (C)1971年『時代』7月創刊号より。撮影・大川文雄

 佐々木秀典さんは北海道六区、旭川生れ、北の国が故郷である。

 秀典さん、小泉内閣解散選挙を機に衆議院議員を引退した。激務を終え旭川の法律事務所に帰るという。一九九〇年旧社会党で衆議院初当選五五歳。政治家としては遅い出発だった。その後当選五回、前から「七〇歳を区切り」と考えていた。一九三四年生まれ「青年法律協会議長」秀典さんも七一歳になった。

 五人兄弟の長男である。三人の弟と妹が一人。実家は母方の祖父から受け継いた食料品店。父秀世は見込まれた入婿、母サヨは秀典さんを産んだ頃は小学校の教師をしていた。秀典さん、父親の自転車のご用かごに乗せられて学校に母乳をもらいに行っていた。学校ものんびりしていたものである。母サヨはしばらくして仕事を辞め秀典さんを頭に七人の子どもを産み二人を亡くしている。秀典さん国民学校最初で最後の世代である。

 戦争から帰った父秀世は「終戦直後いち早く若い力による日本の再建を叫んで政治に志し、当時文字通り青年を糾合して『政治革新青年同盟』なる政治団体を作り既成の権威や町の有力者たちの圧力に抗して、一介の食料店主から裸一貫戦後初の選挙に打って出、創意に溢れた選挙戦を展開すると共に気魄にみちた弁論で大衆の共感を呼び、予想以上の票を集め」た。三八歳で初当選した父親の颯爽とした姿が秀典さんの父親像の原点である。庶民の中から生まれた政治家秀世は自民党の反主流派党人政治家として生きた。議員勤続二五年目の年一九七六年、運輸大臣時代に起きたロッキード事件に巻き込まれ体調を崩し無念のままに議員を辞めることとなった。秀世は六七歳だった。

 父が議員を辞めてから息子が野党である旧社会党の衆議院議員となるのは一四年もの年月を経てのことである。

 秀典さんは家族を動員する選挙のやり方や議員の世襲に批判的であった。父が不出馬を決めたとき、秀典さんは「ロッキードに潰された恨み」をなんとしても晴らそうとする後援会から父に代わっての出馬を強く要請された。重くつらい一日を経て不出馬。「心身共に疲労困憊の極に達していた」「無所属でもいい、そのためなら自分も自民党を脱党する、お前の新しいものを作ってもよいなどの発言が相次ぎ、新たに異常な熱気が会場を圧する」秀典さんは父も後援会の人々も愛しているのである。そして父との超えられない政治信条の相違はだれよりもわかっている。政治家は家業ではない。情と血、地縁でつながるべきものでは無いのである。一九九二年衆議院建設委員会、質問に立つ秀典さん。左手の壁には亡父秀世の肖像画がある。父は彼岸から息子を見ていたにちがいない。

 政治家の家族の苦労を嫌と言うほど味わった秀典さんは父を畏敬しながら「むしろその道に入ることを拒否する気持ちの方が強かった」早稲田大学法学部に進学、民科法律部会に所属し、大学院に進学労働法野村平爾門下となる。修士論文は「不当労働行為」である。父との政治的な距離はますます離れていく。優秀な門下生が多いなかで研究者として大学に残ることは難しいと考えた秀典さんは独立独歩で生きて行く道として弁護士を目指すこととなる。

 一六期。そうそうたる同期生の中で秀典さんは実にのびのびと楽しい修習生活を送る。修習生の三分の一が青法協会員という時代だった。「明けっぴろげな大衆的性格」「どこか人を魅きつける華があり、まわりの人々を温かく包み込む雰囲気」秀典さんの「清々しさ」や「眉目秀麗な勉強家」の風は今でもそのままである。もちろん当時からみんなのリーダー。「秀典さんだよね」「異議なーし」

 東京弁護士会に登録、尾崎法律事務所に入所する。事務所は所員一〇名を抱え、一般民事から労働事件まで事件の種類は広範で、活気に満ちていた。「革新的、民主的活動への積極的参加と寄与を標榜していた」。秀典さんにぴったしの事務所である。大学院で専攻した労働法が生きる労働事件はとりわけ秀典さんの情熱をかき立てた。お父さんの選挙運動の手伝いで鍛えられたのか秀典さんは人の話を聞くことが苦にならない。「愚痴にも似た依頼者の不要領な長話」に辛抱強く耳を傾ける。「よく話を聞いてくれる先生」って評判だった。

 やさしく親切で育ちがよく、ソフトなうちにも強固な信念を秘める有能な青年弁護士は弁護士五年目の一九六九年青年法律家協会の議長に就任する。そして歴史の大きな歯車に飲み込まれて行くこととなる。「司法の激動の時代」である。

 一九七二年六月までの議長時代秀典さんは司法反動青法協攻撃の矢面に立った。望んだわけではないが歴史は適材を配するのである。「タスキがけでビラを配り、マイクを握り、集会で演説し、テレビや誌上対話に出演する佐々木さんの姿が踊っていた」「平易な言葉と分かり易い論理で訴える佐々木さんの演説は特に評判がよかった」同期弁護士鷲野忠雄。そりゃそうである。父秀世の選挙で遠く北の果てまで行って鍛え上げた演説と弁論。裏打ちされた知性。「政治家としての資質と能力がいくらあっても政治家を世襲にすべきではない」そういう秀典さん。「議長退任直後には国会議員への立候補勧誘を方々から受けた」と言う。

 秀典さんは議長退任後一九七七年までの五年間「司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議」の事務局長を勤める。「政治的立場を異にする諸団体の国民連絡会議の運営にはすぐれたバランス感覚と大衆性・民主性が要求されるし、一般国民になじみにくい司法分野の課題を運動化するには説得力、行動力がことのほか重要であった」鷲野弁護士。

 司法反動との闘いを担いながら秀典さんは多くの事件をこなしていく。そこで感じる怒りと理不尽さが「制度や法の改正、などを含む政治活動に私を駆り立てた」血が騒ぐのである。そして死闘の一五年、多数決原理の壁はますます厚くなった。私たちの宝、日本国憲法まで変えられようとしている。

 議員時代、その成立に尽力した「行政情報公開法」や裁判員制度をはじめ一連の「司法改革」に、魂を入れる大きな仕事を残してる秀典さん、ご苦労様そしてお帰りなさい。中年老年になっても「青年法律家」の面々がなんとか頑張っています。今度は法律家として絶対に負けられない憲法の危機。秀典さんにはまた一働きしてもらわなければなりません。「いつも紅顔で黒い瞳が輝いている桃太郎」に引退なんかないんですからね。

佐々木秀典
1934年旭川市生まれ。
1961年司法試験合格、翌年早稲田大学大学院修了
青年法律家協会議長、日弁連常務理事などを歴任。
1990年衆議院議員総選挙に初当選(社会党公認)。
1993年細川内閣で法務政務次官に就任。2005年政界(民主党)。


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