法と民主主義2005年2・3月号【396号】(目次と記事)


法と民主主義2・3月号表紙
★特集★シリーズ・改憲阻止 人権保障と9条
特集にあたって……板井 優
◆女性労働者の権利と憲法9条……渡辺和恵
◆原爆症認定集団訴訟と憲法9条……高見澤昭治
◆様々な思いをひとつにして─原告の訴え……山本英典
◆「らい予防法」は戦争の落とし子……谺 雄二
◆水俣病公害患者の権利と憲法9条……板井 優
◆筑豊労働者のじん肺と戦争─憲法9条を考える手がかりの一つとして……岩城邦治
特別企画●「敗訴者負担廃案」はいかに勝ち取られたか
■特別企画にあたって……坂 勇一郎
■敗訴者負担法の廃案とそれをめぐる感懐……清水 誠
■全国連絡会の運動を振り返って……清水鳩子
■合意論の登場と背水の陣……飛田恵理子
■弁護士会と市民運動との連携─相乗的量的効果と質的効果を発揮……辻 公雄
■司法アクセス検討会からみた弁護士費用敗訴者負担……亀井時子
◇運動の記録
■市民に裁判所の門を閉ざすな……瀬戸和宏
■共同行動を支えた「各界懇談会」……斎藤義房
■宮城から─日弁連を逃さない運動……新里宏二
■京都から─経済界・議員をも巻きこむ……安保嘉博
■大阪から─弁護士と司法書士との連帯の力……国府泰道
■消費者運動から─司法が消費者を脅かす・・・……水原博子
■公害運動から─生きる権利・人間の尊厳のために……小池信太郎
■労働運動から─労働者の裁判権擁護のために……布施恵輔
■憲法運動から─インターネットが市民を繋いだ……石下直子
■資料

 
シリーズ・改憲阻止 人権保障と9条

特集にあたって
 戦争の現実は最大の公害・環境破壊、人権侵害である。
 第二次大戦後、私たちは日本国憲法のもとで、平和を守り人権をめぐる様々な闘いを展開してきた。戦争の論理はたった一銭五厘の赤紙(召集令状)で兵隊を集め戦争が出来るとする喩えにあるように、人の命を極端に安く切り下げる人権否定の論理である。これに対し、私たちは、戦後の運動の中で、ちょうど人権という空気で大きな風船を膨らませるようにして憲法の基本的人権条項の中身を豊かにしてきた。
憲法は基本的人権の条項の前に戦争を放棄し、軍備・軍隊を否認している九条を掲げている。まさに憲法九条は戦争の対局にあり、全ての人権を保障する平和を守る大きな風船であるともいえる。
 戦争の対極にある平和という状態は喩えて言えば様々な人権が花開いている状態である。その意味で、個々の人権保障の総論として憲法九条があることを、これまでの闘いを振り返り、あるいは確認する立場で明らかにすることが、憲法九条をさらに豊かに捉えることにつながるものと考える。
 本特集は、そうした立場から、原爆被害者の人権、労働者の人権、労災患者の人権、公害患者の人権、ハンセン病回復者の人権を取り上げ、さらに人間として生きる権利、人間が生きていく上での自然的環境をめぐる闘いを取り上げ、わが国における人間の尊厳を回復させてきた成果と憲法九条との関係を明らかにしようとするものである。
 しかし、憲法九条とわが国の人権回復をめぐる闘いとの関係はこれに止まらない。
 憲法一二条や一三条は憲法が保障しているのは「国民」の人権と限定しているが、外国人も含めた全ての人の人権が尊重されることが憲法九条の目指すところではなかろうか。
 九二年ブラジルのリオデジャネイロで国連人間環境会議(アンセット92)が開催された。リオデジャネイロは事実上戒厳令下にありNGOの会場もフェンスの周りを機関銃で装備した軍隊が固めていた。参加者は首にかけた紙のIDカードで区別されている。しかし、数日後奪い取ったIDカードをつけた地元の人たちとNGO参加者は区別が付かなくなり、軍隊は対応不能となった。私はこの有様を見て、軍隊は敵味方を識別できないと全く動きが取れないことを実感した。
 軍隊は、まず敵と味方を区別し、敵を殺すことを含め軍事力で敵の抵抗を無力化して問題解決を図ることを目的とする組織である。
 六三年二月二八日米軍占領下の沖縄那覇市で、下校中の中学二年生国場君が青信号で横断歩道を渡っていたときに米兵の運転するトレーラーでひき殺された。しかし、米兵は軍事裁判で無罪になった。折からの夕日で信号が良く見えず青になったと思ってトレーラーを発車させたという言い分がまかり通ったのである。「米軍は沖縄人を同じ人間と思っていない、許せない」、これが当時中学生であった私たちの世代が祖国復帰運動に参加していく大きな動機だった。
 憲法九条は、殺してもかまわないとする敵の存在を否定し、国際紛争の解決を武力で行わないことを明らかにした。その意味で、憲法九条はいわゆる敵も味方も同じ人間であり、問題解決の方法を平和的に行うべきである認識を前提にしている。
 わが国での人権を回復する闘いは、戦前からの大衆的裁判闘争の伝統を引き継ぎ発展させる形で、裁判所での勝利判決・勝利的和解を国民的理解と支持を広げる中で積み重ねられてきた。また、被爆者やハンセン病などの闘いでは人権の回復を「国民」に限定しない形で追求されてきた。憲法九条はこうしたわが国での人権回復を求める様々な闘いによってまさに豊かに満たされて来たのである。
 この憲法九条に満たされてきたわが国の人権をめぐる闘いの成果をさらに積み上げて行く事が今こそ強く求められている。

板井 優(弁護士)



 
時評●NHK問題の本質

関東学院大学教授 丸山重威

 NHKが二〇〇一年一月三十日放映した「ETV2001―戦争をどう裁くか」の第二回「問われる戦時性暴力」が、自民党の安倍晋三内閣官房副長官(現幹事長代理)、中川昭一議員(現経済産業相)らの圧力で改変された問題について、日民協は二月四日、「極めて重大」として「事実の究明」を求める声明を発表した。(80ページ参照)
 しかし、NHKと政治家両氏の発言や他紙、週刊誌の報道で、問題はあたかも「朝日対NHK」であるかのような扱いがされている。だが、問題はNHKの在り方である。改めて考えてみたい。
■「圧力」はなかったのか
 第一の問題は、二人の政治家の言動が「圧力」ではなかったのかどうかだ。
 まず安倍氏は「NHKから『予算説明をしたい』というので会った。そこで党で話題になっていた番組の説明もあり、『公平公正な報道をしてもらいたい』と話したが、政治介入ではない」という。
 通常「圧力」とは、権力者から少し困った「お願い」や「要請」を受けたとき感ずるものだ。安倍氏は官房副長官、NHKは予算承認を待つ立場。政府の要職者からの要請を圧力と感じなかったら、その方が鈍感すぎる。圧力を感じなかったのなら、むしろ、なぜ圧力と感じなかったのか。その方が気になる話だ。
 一方の中川氏は、「事前には会っていない」と言いながら、フジテレビの「報道2001」(一月二十三日放送)では「『この件について実はいま内部でいろいろと番組をいま検討している最中です』と、こういうご説明がありました」と発言し、「『番組を検討している最中』というのは、放送前ということですね」と突っ込まれ、「『いろいろ中身を変更しています』、あるいは『変更しました』というような説明がですね…」と、事前の話し合いを事実上認めている。
■「ご説明」の構造
 実はこの問題、当時から「放映前の一月初めの自民党総務会で、『あんな番組はやめさせろ』との発言があったらしい」と報告されていた。恐らく政治家に「説明」したのは、松尾総局長だけではなかったのだろう。NHKには、担当局長の下に「総合企画室」というセクションがあり政界対策も担当する。政治部OBの職員に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」などの議員が働きかけても、珍しくはなかったかもしれない。
 辞任した海老沢勝二前会長の後を受けた橋本元一会長は二月四日、「新年度予算案の説明」のため、自民党総務会に出席。「国会議員が番組づくりにものを言うのは当たり前」との意見に、「説明自体は悪いことではない。ただ、お伺いを立てるようなやり方はどうかと述べた」と説明したという。だが、NHKが報道機関である以上、会長が政権政党の総務会に出て「ご説明」する構造は異常だ。このことを朝日も毎日も読売も、ごく当たり前のこととして報じた。これは感覚の麻痺ではないか。
■公共放送としてのNHK
 読売と産経の社説は「教育番組として放送しようとすること自体に疑問」などと「女性国際法廷を取り上げたこと」を問題にし、週刊誌や右翼雑誌は朝日記者への個人攻撃を展開した。「慰安婦」や「天皇」を「タブー」にし、かつての戦争を肯定し、戦後の精神を破壊しようとする自民党や右派メディアも浮かび上がっている。NHKがそんな権力の奴隷になるのを許してはおけない。
 あまねく放送の文化を届け、公正な視点と認識を提供する責任を負うのが公共放送だ。これを「われわれのもの」にできるかどうかは、実は視聴者の意思と行動にかかっている。
 いま最も必要なのは、「NHKにジャーナリズムを根付かせよう」と考える日放労など内部の良心的なジャーナリストとの連帯を進めることだ。
 差し当たって国民の声を反映させる第三者機関の新設から手を付けたらどうだろう。それがNHK再生の道である。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

法の支配と民主主義 福沢諭吉の血を受けて

ニューヨーク市立大学・霍見芳浩教授
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 その日は私と林さんの特上の日であった。三時に帝国ホテルに霍見先生を訪ねてインタビュウ。先生はとてもすてき。もちろん二人のポイントは高く、うきうき気分でホテルを出てサントリーホールへ。次は小林研一が振る日フィルのコンサート。知性と教養に満ちたいきいきとエネルギッシュないい男と会い、上質の時と音楽。こういう日もあるんだから。

1959年1月。スタンフォードの友人家族が経営していたバー“West Toward Ho!”で。西部劇にちなむ小道具が壁に。昔もかっこいい芳浩青年。バーの喧噪が聞こえるよう。 私は、霍見先生は切れ味鋭い論客で、与太話なんかしたら冷たくいちべつされるにちがいないとほんとに心配していた。何しろあの黒船ハリスが創立した「貧乏人のハーバード」ニューヨーク市立大学の世界的に著名な国際経営学教授。おばかな私にはどんな学問かもわからない。慶応義塾大学経済学部出身、ハーバードでMBA取得後一九六八年三三歳で日本人として初めてDBA経営学博士号を取得。ハーバード、コロンビア、カリホルニア大学の教授を経て一九八〇年から現職。三七年間米国で学び教え書き発言し米国マスコミからは「闘う大学教授」と言われている。邦書の著作も多く、二〇〇二年にはニューヨーク市立大学の最高生涯学術貢献賞を受賞している。

 近刊の「アメリカのゆくえ、日本のゆくえ―司馬遼太郎との対話から」を読むと日米両国の歴史と政治、社会の構造と文化に対する博識と分析の深さにしばし圧倒される。今そこにある現実の事象が社会的な広がりとともに辿ってきた歴史の中で活写される。今がたくさんの糸でたぐり寄せ織り込まれるように浮き上がる。そして進むべき道が照らされる。そこで吹いている風の匂いまでする。たたずむ霍見先生の姿も見える。なんと言ってもいきいきと面白い。この躍動する現実感は霍見先生からも絶えず発せられるオーラである。話はわかりやすく率直、骨太で鉈の切れ味。切り口も独創的で説得力がある。太い幹となっている知の膨大な蓄積のうえに、独立自尊の精神と近代的合理性が息づいている。現実を直視し、人類の歴史が積み上げてきた正義をしっかと見つめる強くやさしい目が光るのである。いったい霍見先生はどうしてこんなに魅力的な世界基準、知の人になったのであろうか。

 生まれは福岡、母の実家熊本育ちである。一九三五年生まれ、とても今年古稀を迎えるとは思えない若々しさ。逓信省に勤めていた父親は軍属として一九四二年戦地に派遣され帰らぬ人となる。小学校四年生で敗戦。熊本の家は空襲で全焼、父もなく家もなく、母が和裁と洋裁の内職で懸命に働き戦後の生活がはじまる。陽気で頑固な反骨男、でも憎めない「肥後もっこす」の血が流れ始めるのである。熊本高校では生徒会や新聞部と空手部、三年の時は甲子園まで奇跡的に勝ち進んだ野球部の応援副団長を買って出る。これで東大受験。もちろん不合格。上京して浪人生活に入る。ここが霍見芳浩青年の大きなターニングポイントとなる。

 すんなりと東大に行っていたら官僚嫌いでリベラルな霍見先生は生まれなかった。浪人最初の一年は「四当五落」の実践。受験当日体調を崩し失敗。二年目は就職して上京してきた姉とともに偶然上智大学英文学の教授小稲義男先生宅に間借りすることになる。芳浩青年ここで開眼。英語は受験英語ではなく本物を身につけよう。大好きな歴史は徹底的にやる。この二本柱は先生の原点となる。英語の学び方は合理的でユニーク。まずは映画。たとえば「エデンの東」。シナリオを撤低的に読み、暗記する。映画に行ったら柱の陰で音だけ聞く。次に画面が見えるところで映像も見る。こんな調子で映画を見たら生きた英語が身に付かないわけがない。ジェームス・ディーンにうっとりしている私じゃだめよね。そして書斎にある本は何でも自由に読んで良いと言われた芳浩青年は英文学者のスタンダード文献に手当たり次第に目を通した。歴史は日本史だけでなく世界史も視野に入れ知識の基礎をしっかり身につけた。

 そしてスタンフォード大学と交換留学をしている慶応大学経済学部に入学二年目から特待生で授業料免除で入学する。入学後すぐに英字新聞クラブに、休日を利用して英文タイプを自習し打ちまくる。スタンフォードに行ったときにはあまりに英文タイプが早いので「君はネイティブか」と同室の学友に言われたという。スタンフォード大学の一年間は実に刺激的で学部の教育のレベルの高さとそこで教える先生の質の高さに目を見張る日々だった。一九五九年六月、一年の留学を終え芳浩青年二四才は二ヵ月のアメリカ無銭旅行をする。「大陸国家の土地カンを肌で感じるため」アメリカ南部では人種差別の実態を学んだのを始め「地勢と民勢が複雑にからむ大陸国家の仕組みの一端に触れることができた」知識を事実からとらえ直し血肉化する。

 帰国後経済学部を卒業、大学院へ。修士・博士課程後助手に。この時期霍見先生の知的欲求は日本の大学の中で十分には満たされなかった。求める場が違う。そんな時、大学からハーバードへ派遣される。そこも卒業。帰って来いと言う大学の命を振り切ってそのまま博士課程に進みDBAを取得するのである。

 専門は国際経営と日米の比較経営論と政治経済論。比較分析の視点は司馬遼太郎の言う対米比較の光線で「魯迅もホーチン・ミンも福沢諭吉も夏目漱石も森鴎外も、そういう光線を照射することで自国を知った」のだそうだ。

 霍見先生は光線を両国に当て続けそれぞれの姿を浮かび上がらせ論じ続ける。

 「私は今の日本国憲法が公布された翌年に、中学に入ったが、新しく始まった社会科の授業では、この憲法の格調高い前文の暗唱と解釈に相当の時間をかけた。そして、新憲法の『主権在民』や『基本的人権』と『平和主義』の三原則が日本人の生活を守るのにいかに役に立ち、この憲法によった立法、行政、司法の三権分立制度や男女平等、婦人参政権や政治結社の自由、言論の自由などを真剣に学習した。私の民主思想と市民行動のルーツだった」「民主的な法治国家」を国のかたちとするアメリカは今先生のかつての教え子ブッシュジュニア以下のネオコン(国粋右派)政権によって民主社会崩壊の危機に瀕している。日本の小泉政権は「国粋国権派に本卦還りをしている」「今ではブッシュ大統領一派による国粋ネオコン神政に似てきている」

 日本の常宿は帝国ホテルの広い部屋。公共交通のアクセスが良い。ホテル裏のガード下に行けば朝の定食が四五〇円。サービスも良く心地よい。長期滞在で割り引きもある。部屋で人に会うのも便利。うーん合理的でリーズナブル。名前以外は霍見先生にぴったしなのである。

 今度はニューヨークでお会いしたい!

霍見芳浩
1935年生まれ。
1960年慶應義塾大学経済学部卒業。
1966年米国ハーバード大学経営学修士号(MBA)取得。
1968年同大学経営学博士号(DBA)を取得(日本人初)。
1980年より現職のニューヨーク市立大学教授。


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