法と民主主義2004年5月号【388号】(目次と記事)


法と民主主義5月号表紙
★特集★シリーズ・改憲阻止 私たちの運動と憲法
■特集にあたって……海部幸造
■私たちの運動と憲法〈T〉
◆憲法の平和原則と原水爆禁止運動/赤松宏一 ◆非核・平和の政府を氏^中嶋篤之助
 ◆「あたらしい憲法のはなし」─1ヶ月で6千冊普及のこと─/佐藤光雄 ◆日本婦人有権者同盟は婦選運動の後継団体、平和憲法を活かすために在り/紀平悌子 ◆憲法を守る“共同”を草の根から─女性の憲法年連絡会/榎本よう子 ◆憲法って、おもしろい 日本中の女性に届けたい/高田公子 ◆平和をめざしての矯風会のあゆみから/高橋喜久江 ◆生命を守るスローガンを憲法に重ねて/木村康子 ◆日本国憲法九条を世界の規範に/栗橋 孝 ◆九条を世界へ未来へ!/山下信二 ◆権力は情報を隠すために何でもする/新海 聡 ◆わたしたちの憲法劇「がんばれッ!日本国憲法」/佐藤昌樹 ◆平和憲法をまもるため、労組もネットワークを/明珍美紀 ◆反響を呼んでいる「あたらしい憲法のはなし」/岩波薫 ◆労働組合運動と憲法/布川 実 ◆今日まで、明日から─組織労働者と憲法運動/戸井田和彦

■私たちの運動と憲法〈U〉
 ◆イラク派兵差止北海道訴訟(箕輪訴訟)……佐藤博文
 ◆「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」について……川口創
 ◆沖縄と高裁管轄地域で反戦憲法訴訟を起こそう……辻公雄
 ◆靖国神社の国家施設化を許さない運動……加島宏
 ◆東京心の自由訴訟─日の丸・君が代強制予防訴訟……杉尾健太郎

■緊急特集・いま 法律家は何をすべきか─イラクの平和回復と憲法九条の改悪阻止のために
 ◆最近の憲法状況と護憲の課題……山内敏弘
 ◆現地から見たイラク情勢……熊岡路矢

 
シリーズ・改憲阻止 私たちの運動と憲法

特集にあたって
 イラクへの自衛隊派兵の強行、更には、昨年成立した武力攻撃事態法などの有事関連三法に続き、それを補完し完成させる有事法制が国会を通過しようとしている。その現状は、日本が抽象的に「戦争をする普通の国」になると言ったものに留まらない、先制攻撃を辞さないアメリカの軍事戦略に何処までも追随し、その後方支援を全面的に請け負う、そのための国家体制造りの完成を目指すというものである。安保条約の内容をもはるかに越え、軍事大国化のための最後の障害としての憲法の改悪が、まさに現実のものとして迫ってきている。

 改憲勢力の憲法改悪の衝動は、こうした軍事大国化の為の平和条項の改悪のみならず、構造改革を押し進める上で様々な社会矛盾を権力的に押さえ込むための、治安の強化、福祉の切り捨て、教育の国家統制等々、様々な条項にまで広がっている。教育基本法改悪の動き、石原東京都知事のもとで強行されている都立高校・都立養護学校での日の丸・君が代の生徒への押しつけ、解雇を含む処分という恫喝を背景とした教職員への強制は、その象徴的現れと言える。

 国会では、自民、公明、民主がそれぞれに改憲論を競い合い、改憲を標榜する勢力は今や国会議員の三分の二を越え、国民投票法の策定を視野に入れる段階に至っている。

 しかし、もちろんこうした国会の状況と国民の意識状況とには大きな落差がある。

 旧憲法の時代との比較で考えれば、基本的人権も民主主義も、現憲法の下で、また各分野の運動により、全体として飛躍的に成長をしてきたことは疑いようのないことである。55年を越える日本国憲法の歴史の積み上げの中で育まれた平和、民主主義、基本的人権についての国民の意識は、上記の改憲勢力とのせめぎ合いの中でも彼らの攻撃に拮抗し、これを押し返すことが出来るだけの分厚さを創り上げてきている。

 私たちが依拠すべきは、まずは、こうした様々な分野における運動の中で築き上げられてきた国民の平和への願い、民主主義と基本的人権の実現への意識と願いであろう。

 各地で根を張ってきた様々な分野における憲法運動は、憲法の理念が市民生活の中に様々な形で根ざす上で大きな役割を果たしてきた。しかし、こうした様々な運動も、その分野により発達は不均等であり、一部には、一見、戦後の一時期に比して後退したのではないかと思われてしまう分野もある。

 今、私たちは、今後の運動を進め闘って行く上でも、こうした様々な運動の中で培われ、育ててきたもの質を、またその総体を正確に把握する必要があるように思われる。そして、このように見たときには、状況を否定的にばかり見ることは決して正しくはない事が理解できるであろう。

 本企画ではこうした問題意識から、様々な分野の様々な運動(訴訟運動も含め)からの報告、憲法運動の果たしてきた役割と今後の課題についての意見をお寄せいただいた。お忙しい中ご報告、ご意見をお寄せ頂いた諸団体、諸氏に厚く御礼申し上げる。また、四月に開催したシンポジウム「いま法律家は何をすべきか」における山田敏弘龍谷大学教授と熊岡路矢JVC代表の講演内容を掲載させていただくことが出来た。イラク情勢、平和の創造を考える上での基本的な視点、憲法改悪阻止の運動を形成して行く上での基本的視点について貴重なご指摘をいただいた。

 本企画がいささかでも憲法擁護の運動に積極的な刺激となったら嬉しいと思う。

(文責・企画責任者  海部幸造/弁護士)


※本誌で文章に一部重複する箇所がありましたことを読者の皆様、並びに海部先生にお詫び申し上げます。(編集部)


 
時評●イラク人捕虜虐待を考える

弁護士 間部俊明

 憂鬱な日々が続く。イラクで人質になった三名と家族への自己責任追及の大洪水の次は米英軍によるイラク人虐待問題である。流れてきた映像に心は落ち込むばかりだ。かの国の指導者は、あれは例外で、多くの兵士は勇敢で真面目だと弁明につとめ、威勢がよかったが、相次いで発覚した虐待の事実に謝罪を繰り返し始めた。しかし、謝れば済むという程簡単な問題ではなかろう。虐待をした当事者は、非難の大きさに驚いて上官命令の抗弁を言い出した。自分は命令されてやったにすぎないと。醜い限りだが、この抗弁が通らないことを教えてくれたのは半世紀前のかの国の戦犯裁判だった。米軍は、虐待の事実を知らなかった日本軍の司令官を監督不行き届きであるとして絞首刑を言渡し、処刑したことを世界に打電した。上官責任と言う言葉を教えてくれたのもかの国であった。

 赤十字国際委員会は、イラク戦争が始まった昨年三月から虐待問題で警告していたと言う。かの国の軍隊は今年1月に虐待の事実を掴み、三月までに内部報告書をまとめていたが、最高指導者は動かなかった。虐待は昨年一〇月から一二月に多発したと言うから、早期に手を打っていれば多くの事件は回避できたのではないか。とすれば、軍司令官の上官責任を問うべきは当然であろう。さらに、そうした事実を知りながら放置した最高指導者の上官責任は問わなくてよいのか。

 これより前、米国は、アフガン戦争で捕獲した被拘束者は不法戦闘員であり、捕虜ではないとしてジュネーヴ第三条約の保護を否定していた。同じ論理がイラクでもまかり通っていたのではないか。不法戦闘員は捕虜ではないから条約の保護を受けないとの論理。それは、かつてわが国がとっていた論理と同じである。中国での戦闘は戦争ではないから、捕獲した戦闘員は捕虜ではないと言う論理。当時の国際社会はこぞってわが国を非難した。わが国の都市を無差別爆撃して多数の非戦闘員を殺害したB29の搭乗員は不法戦闘員であって捕虜ではないと言う論理。わが国の台湾軍、東海軍、中部軍は、後者の論理に従って、B29搭乗員を軍律会議にかけて処刑した。わが国のそうしたやり方が国際法に違反していると非難し、断罪したのはかの国であった。その裁きの法廷に輝いていたのは「文明」の旗だった。

 責任者を軍法会議にかけると言うが、現地で開かれるその手続は簡略だと言う。そうだとしたらそれは司法手続(軍法会議)ではなく、行政手続(軍事委員会)の処分ではないか。また、自国が自国の兵士を裁く法的根拠は軍紀違反にすぎないのではないか。どのような裁判規程で裁くのかを明らかにすべきである。被害者の言い分はどのようにして証拠化されるのか。裁判所の構成はどうなっているのか。

 国防長官は先頃開かれた公聴会で、イラク人の軍人はジュネーヴ第三条約の上の戦争捕虜であると認めた。そうだとしたら、国際社会は、国際法による裁きを求めていくべきである。かの国が国際刑事裁判所条約を批准していないことを知った上で、あえて「文明の裁き」を主張すべきだと思うのだ。イラク人による報復も始った。憎しみの連鎖こそ戦争の本質である。このような憎しみの連鎖を断ち切るためにこそ、私たちはこの憲法を選択したのではなかったか。かの国による「文明の裁き」を受け、この憲法を持つわが国だからこそ、その裁き手の半世紀後の無法に対して、「文明の裁き」、言い換えれば、国際社会における「法の支配」の必要を訴えるべきではないか。ちなみに、改めてスガモプリズンの被収容者の訴えを読み、何日間も全裸にされて放置されたとの声が複数あることに気付いた。かの国は半世紀前から同じことをやっていたのだ。

 横浜弁護士会は、この七月、六年にわたって取り組んできたBC級戦犯横浜裁判の最終報告書を出版する。この研究がこれほど今日的意味を持つとは思わなかった。お読みいただければ幸いである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

ときこ口伝 書けばこそ在る

作家:松田解子さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1928年。上京した母スエ56歳(右)。解子23歳(左)。長男鉄郎8ヶ月(中央)。純白のケープは大杉栄の妹大杉あやめがくれたもの。鉄郎をじっと見つめて「かわいい」といって涙した。甘粕事件で殺された息子橘宗(当時16歳)の形見だったもの。 中央線中野駅からバスで一五分。哲学堂公園を右に見て左折右折を繰り返し江古田住宅前でバスを降りる。小路を入ってしばらく行くと解子さんのお宅がある。戦中からの住人で古参格。通りからすぐに玄関口になる庶民的な家には表札は二つ、「松田解子、大沼渉」が右、「橋場」が左。長女橋場史子さんが解子さんと家の裏手にある別棟の書斎で待っていてくれた。屋根裏が資料置き場になっている。書斎の端にはピアノが置かれている。
 左手のソファーにちょこんと腰掛けている解子さん。九九歳白寿、小柄な体につややかな白髪、肌はつるつる。いたずら子のようにくるくる回る瞳に時々諧謔の精神が現れ、おどけたような口元からぽろりと言葉がこぼれ出る。ほっほっと歯切れのよい口調である。昔風の数え年でいうと百歳。現役で白寿を迎えた作家は野上弥生子さんぐらいではないだろうか。
 耳が遠いとはいえすこぶる元気な解子さんは時々娘の史子さんに突っ込まれて「あらそう」とくったくない。鉄砲玉のように事件の現場にぶっ飛んで行く筋金入りの赤い女流作家はきれいに年を重ね抱きしめたくなるような百歳になった。インタビューは話が弾み一時間の約束が二時間半にも及んでいる。何しろ一〇〇年の話である。解子さんはその間時間を楽しんでいるようににこにこしている。
 白寿記念出版童話集「桃色のダブダブさん」(新日本出版社)のまえがきを解子さんはついこないだの二〇〇四年一月一一日に書いた。「わたしは一九〇五年、秋田の山奥の鉱山で生まれた。当時、三菱鉱業が支配していた金属鉱山だった。生まれたその年のうちに父が死んだ。母は二人目の夫にも塵肺で死なれ、わたしを連れて三人目の夫に嫁いだ。その夫は、自分も鉱山の製錬夫として毒煙のきつい溶鉱炉のまわりで働くとともに、会社から貸し与えらた、やや手広い建家で飯場頭を兼ねたので、以後のわたしは何十人もの『若衆』がいる飯場で育った」。本名は「ハナ」。解子はペンネームである。小学校の教師を辞め家出上京後に付けた。どこに行っても解雇になるので解子としたという。それを「トキ」と読ませる。解雇の解だったとは。「ハナ」の名は捨てた故郷の辛い暮らしの匂いがするのだろうか。
 三人目の父は自分の思い通りにならないと家族に暴力を振るった。解子さんが一五歳になると彼女におかしなそぶりをするようになる。母はそれを聞いて解子さんを抱きしめ声を殺して嗚咽した。が母子にはとどまる所はそこしかなかった。解子さんは高等小学校を卒業後赤十字の看護婦生徒になる準備をしていた。ところが鉱山事務所から「給仕兼タイピスト」
として使うとの「命令」。三年間やむなく鉱山事務所でタイプを打ち続けた。眼鏡はその時からである。解子さんにとって事務所は「なんともかんとも厭な所」であった。
 その間必死で受験勉強、秋田女子師範本科二部に入学することができた。一年で小学校の教員免許が取れる。やっと山から逃れられる。この一年の学校生活は夢のようだった。内容豊かな講義もあり、飯場生活とくらべ寄宿舎では純内地米の主食と贅沢な副食物。飯場の食事は南京米混じりの飯とタクアンとボタコ(塩鮭)かザッパ汁(魚のあら汁)の繰り返しだった。
 けれども夢はすぐにさめる。卒業後の赴任地は故郷の鉱山の母校であった。義父は養豚を始め、解子さんは学校から帰ると生徒たちの家を一軒一軒まわり、残飯もらいの仕事までさせられた。一九二四年時代は大正の終わり。暗い戦争の時代に入ろうとしていた。解子さんは何とか二年の義務年限を終えた。「この苦しみから何とかして逃れたい」解子さんは考え続け「文学をやろう。自分を洗い出して、この苦しみをはき出そう」。三月粉雪の日、母スエは「ンでは、な、ハナぼ、成る者に成る気で行げな。お母はこのヤマでずっとお前とお兄ちゃんを待っているから」と、馬ソリに解子さんを乗せた。二〇歳の春だった。
 信玄袋一つで上京した解子さんは文学と社会運動をめざして労働運動社を訪ねる。そこで社会主義運動家の大沼渉とであい、一九二八年川向こう小松川の土堤下長屋に所帯を持つことになる。
 怒濤の昭和の幕開けから終戦まで一七年、解子さんは二人の息子を産み、大沼とともに社会運動を続け、生活を支えた。そして山のようにあふれる想いを書き続けた。「女人芸術」の女流とのつき合い、プロレタリア文学への参加、無産者託児所、消費組合、産児制限運動にかかわる。そんなことで特高に追われる日々の中、二人の息子のどっちかをおんぶしてどこへでも出かけた。暗く辛い時代なのにみんな解子さんにやさしい。神近市子さんは「あなた現代古典を書きなさい。少女時代の経験を」と励ました。長谷川時雨さんは「子どもは野にも山にも産んでいけというたとえもあるし、今苦労していても、あとで一番幸せになるかもしれませんよ」と。
 すべて戦後に実現する。
 小林多喜二は解子さんより二歳年上、同世代の作家である。築地警察の拷問で殺される前の年、プロレタリア作家同盟の横浜支部の要請で一緒に講演会をやったこともある。その多喜二を記念する第一回目の賞を三四年も経て解子さんが、「おりん口伝」でもらうことになる。そのとき解子さん六一歳。三〇歳で亡くなった多喜二の倍の人生を経て縁がつながるのである。きら星のような人々と鉱山で積み重なるように消耗され死んでいった人々、ともに解子さんにおいては忘れえぬ人々である。
 終戦の一九四五年、解子さんまだ四〇歳である。九九歳の折り返し地点にも来ていなかった。
 戦後の活躍は松川事件、花岡事件、じん肺、東電とパワー全開。もちろん著作にも力を注ぐ。
 息長く、決してめげずに自分の思想で生きる。時代に関わり虐げられている人々に思いを寄せ、怒り続ける。書き続ける。百歳なんてすぐそこである。

松田解子
1905年 秋田県にて誕生 1924年 大盛尋常高等小学校教員
1968年「おりん口伝」、多喜二・百合子賞/田村俊子賞受賞
2000年 秋田県協和町に「松田解子文学記念室」開設
「山桜のうた」「あすを孕む女たち」等多数の著書あり。白寿記念、松田解子自選集第一回配本『地底の人々』(澤田出版)が刊行。


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