日民協事務局通信KAZE 2004年2・3月

 故小山久子さんとともに
2・5ピースキャンドルパレード

(弁護士 平山知子)

 二〇〇四年二月五日夜。天気は良いが、風が強い。明治公園には、三々五々人が入ってくる。旗やプラカードやちょうちんなどを持ち、懐中電灯を首からぶら下げている人もいる。やがて、キャンドルに点灯されるときが来た。私は、両手で小山久子さんの遺影を抱えて立った。要員のしるしの水色のリボンを結んで遺影の端につけた。
 自由法曹団の坂本修団長をはじめ、先頭の五人が、横断幕を持つ。私も先頭の一人であった。すぐ後ろには、日弁連の「イラク派兵反対」の旗がたなびく。両端の人がキャンドルをかかげ、パレードは出発した。
 小山久子さんの遺影は、その前日、久子さんのお母さんからお借りしてきたものだ。数年前、事務所ニュースに載せるために、事務局の渡辺さんが事務所の中で撮影した写真である。久子さんは静かにほほえんでいる。
 おりしも、ちょうど二ヶ月前の二〇〇三年一二月五日、都民中央法律事務所の同僚弁護士・小山久子さんは急死された。だから、この日は、久子さんの月命日なのであった。
 小山久子さんの葬儀の時に、久子さんを偲び彼女の想いを伝えたいと考えて、しおりを作ることにした。そのために、これまでの久子さんの活動や経歴を整理し、今までに、久子さんが事務所ニュースに書かれたもの(思いもかけず遺稿となってしまったのだ)からいくつかピックアップするだけでしおりができあがった。もちろん、事務局も含め事務所所員が、全力でまとめ上げたものである。
 久子さんの遺稿、とくに一九九五年の「戦後五〇年にあたって」と題する一面記事をあらためて読んでみて、現在のイラク派兵や憲法改悪のたくらみに対する久子さんの気持ちが迫ってきた。
 久子さんは戦没者の遺族であった。「父が戦死して半年後に生まれた私は父と同じ時間を生きることがなかった…」とそこには書かれている。久子さんのお母さんの実家も戦災を受け、久子さん母子の手元にはお父さんの写真すら残らなかったのである。ところが、戦後五〇年のこの年、偶然の機会から久子さんのお父さんが所属していた隊の戦友会の人から資料や写真集を見せられたのだ。
 「この写真集で初めて父の顔を知ることができました。娘は父親に似るとのこと。私が美人でないのが頷ける写真でした。戦後五〇年目にして手にした宝物です」と書いている。もちろん美人でないというのは彼女の謙遜。そして久子さんは、国会での不戦決議に触れて、次のように書き綴って締めくくる。
 「戦没者遺児としての思いは、母と私のもとに父を返して欲しかった…。でも失われた生命が甦ることがないのなら、父の死が『英霊』と美化されなくてもいい、侵略戦争で犬死にであってもよい、三一〇万人の日本人と二〇〇〇万人アジアの人々の生命を奪った戦争を憎み、もう二度と戦争はしない、再び戦没者も戦没者遺族もつくらないと国に誓って欲しいのです。この思いは、日本国憲法に生かされています。戦没者遺族にとっては日本国憲法の『戦争の放棄』は、最愛の肉親の、戦没者の生命の代償、形見なのです。これからの日本の進路はこの平和憲法を生かしきることであると思います。」
 久子さんの、「再び戦没者も戦没者遺族も作らせない」というこの想いが、彼女の平和遺族会などの活動の原点になっていたのである。そしてまさに、2・5のピースキャンドルパレードを成功させた原動力でもあったのだ。

 寒風の中、パレードを終えて外堀公園に着いてからも、私は久子さんの遺影を持って、一万人のパレード最後尾の人が到着するまで、立ち続けた。なぜ遺影を持っているのか、それは誰なのかと、どれだけ多くの人に訊ねられただろうか。その度に、私は久子さんの事務所ニュースに書き綴った想いを熱く語った。問いかけたすべての人が、これを納得してくれた。そして、自らの想いと重ね合わせながら、パレードの成功に確信を深めた足取りで帰途についていった。
 久子さんの遺志を継ぎ、これを実現するための正念場は、今をおいてないと私は思っている。


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