法と民主主義2002年7月号(目次と記事)

法と民主主義7月号表紙
★特集★●国家の情報管理に異議あり―「個人情報保護法案」を点検する
◆特集にあたって………編集委員会
◆精神障害者の人権と「社会の安全」−「心神喪失者等処遇法案」の本質……足立昌勝
◆治安法の発想に異議−手続法から見た「法案」の問題点……浅田和茂
◆「隠された保安処分」ではないのか−刑法から見た「法案」の問題点……中山研一
◆日弁連はなぜ「新処遇法案」に反対するのか……伊賀興一
◆「おそれ」は判定不能、治療としても後退−臨床精神科医からみた「法案」の問題点……中島 直
◆精神医療の現場から問う−論点の整理と十分な議論を……大塚淳子
◆全法務の取り組みと保護観察所の現場実態……田中 浩
◆精神障害者の犯罪行為に関する審判・処遇機関を考える……井上博道
◆「心神喪失者等処遇法案」に関する資料

 
時評●八幡政治献金事件判決を見直すべきである

弁護士 阪口徳雄

 自民党の二〇〇〇年収支報告書を見ると「政策活動費」という名目で、野中広務に七億一九二〇万円、森喜朗に六億一一一五万円、鈴木宗男に一億二四〇〇万円、田中真紀子に一五〇〇万円、小泉純一郎に一一〇〇万円を始め自民党国会議員全員に合計八五億三八五万円を支払ったとある。
 しかし、自民党の国会議員の資金管理団体の収支報告書にこれらの活動費が入金した旨の記載はない。国会議員個人の所得としても申告した形跡がない。合計八五億円余がほとんどアングラマネーと化している。
 財界が毎年五〇億〜八〇億円近く国民政治協会(自民党の政治資金団体)に献金をしている。このうち、生命保険業界が三〜五億円を負担し、日本生命はこの二〇年間(年にもよるが)最低でも一六三四万円、最高六八九一万円も献金している(年平均五〇〇〇万円)。この企業献金の支出が取締役の善管注意義務等に違反するとして保険契約者(株式会社の株主に相当する)二八名が二〇〇〇年五月、大阪地裁に代表訴訟を提訴した。政と財との癒着の根本は企業献金にあるからと判断したからである。
 企業献金は結局のところ、右のとおり自民党ならびに同党の国会議員のアングラマネーとなっていることをこの裁判の争点の一つとした。これに対し大阪高裁判決(本年六月 日)は「控訴人らは、無償の寄附をする以上、その使途を検討するのは、取締役としての最低の責務である旨主張するけれども、政治献金は、政党がその政治活動を行うための支出に充てることを当然の前提としているのであり、政治献金をするに当たって、それ以上に、使途につき検討する義務を負うものとはいえない。」として企業献金を合理化した。
 企業献金裁判の論点は多岐にわたったが、裁判官は契約者の主張を全部排斥し、現状を追認した。
・「参政権が自然人たる国民にのみ認められるものであることは控訴人ら主張のとおりであるとしても、会社にあっても、公共の福祉等に違反しない限り、政治献金をなすことができないと解すべき理由はない」(これは八幡政治献金事件を引用した)。
・「会社が政治献金を行ったとしても、国民は、自己の政治的信条に基づき、自由に判断して選挙権、被選挙権等の参政権を行使することができるから、これを直接的に侵害するものではない」(直接侵害していると主張していないのに論理をすり替えた)。
・「政治献金の弊害等を指摘する国民各層にわたる各種の意見のあることが窺われることを考慮に入れても、政治献金を行うことがその社会的役割を果たすことに通じるとの社会的な評価が全く失われたものとまで断ずることはできないものというべきである」(きわめて苦しい弁明である)。
・「生命保険事業を継続的、安定的に遂行していく上で、社会、政治及び経済等の安定的な基盤の確保が必要であるとの考え方に立って行われたもので、企業体としての円滑な発展を図る上に相当の価値と効果が認められ、間接ではあっても目的遂行のため必要なものである」(これは裁判所の独断である)。
・「生命保険契約からの脱退の不利益は事実上のものであり、契約者に脱退の自由が保障されているから南九州税理士会政治献金事件とも異なる(政治献金が嫌なら脱退すればよいという論調である)。
・「控訴人らは、契約者から徴収した保険料の中から本件政治献金をする旨を明示せず、控訴人らとの間でその旨の黙示の合意もないと主張するが、会社が、その事業活動に関連して事業費から政治献金を出捐することは違法なものではなく、事業費の支出である限り、政治献金を含め、保険契約の当然の内容になっているというべきものであるから、契約違反の問題は起こらないというべきである」(政治献金をすることが、契約の内容となっているというのであるから暴論以外の何ものでもない)。
 司法の役割は、政と財との癒着の根本である企業献金を是正することである。三十数年前の判決である最高裁の八幡政治献金事件を今、見直すことであるのに、地高裁の裁判官はこれらの古い判決に今なお「呪縛」されている。日本生命の事件について七月二日に最高裁に上告した。八幡政治献金事件を見直すのは今しかない。是非、関係者の御協力をお願いしたい。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

無神論者人に道を説かず 刑事司法60年の荒野 環 直彌

弁護士:環 直彌先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 環先生81才。検察官5年、弁護士11年そして裁判官25年定年まで勤め、また弁護士になる。65才から始めた弁護士の仕事は今年で16年、そろそろすっと消え去りたい。ビールでも飲んで「今日は一日暑かったな」と言ってから「あれっ先生は」とこの世を去りたいと言う。葬式も墓も要らず骨は海に撒く。元気な先生がそういうことを言っても説得力がまるでない。足腰も頭脳もピンシャンで先日も環杯ゴルフで北海道に行って来たばかりである。お住まいは遠く千葉県佐倉の地、未だに都心で飲んで帰る強者である。「私の人生などつまらないものでした」、刑事司法フルコースの実務家「存外孤独」と言う。それは自由人に架せられた勲章。仏像の研究を趣味としたオールドリベラリストの荒野はどこにあったのだろうか。
 環先生は1921年徳島生まれ、三人兄弟の末っ子次男坊である。実家は地主で父は養子。祖父の資産を関与していた銀行業の破綻で大きく減らした。そのとき徳島の弁護士にしてやられ、息子達が法の道に進むことは父の願いでもあった。直彌青年は三高から兄昌一と同じく東大法学部に進む。三高は自由な学風で知られる。元々直彌青年は「権威に対する反抗心があり、少数意見を持つことが多かった」「割合理屈っぽく、自分が正しいと思ったことは、容易に譲歩しない」。法学部に進学時に「有治人無治法」という書を尊敬する自由主義者で漢文の先生から送られる。それを「法は人の運用の仕方によって価値が生じるもので、運用の仕方は人間的でなければならない」と直彌青年は解し、これを「一生の指針」とするのである。三高時代から酒とのつき合いは始まり、酒が飲めるところはどこでも行った。誘われて行った同級生の住み込み家庭教師先はただ酒を飲み帰りの電車賃まで貰うという破格の待遇であった。酒好きな直彌青年は足繁く通った。そこは三人姉妹、後日長女がその同級生と結婚、当然直彌青年も24歳の時妹久子さんを娶とることとなる。先生の奥さんは19歳の時実家で大酒を喰らっていた三高生と金婚式どころか60年もつき合うこととなる。大酒と客の接待は環家につきもの。先生は「酒の代償で貰った」とうそぶく。
 大学は2年半で繰り上げ卒業、時代は戦争末期、一年下からは学徒動員となる。「卒業のころは、日本は事実お手上げの一歩手前の状況であった。のに、偽政者は国民の利益を全然考えない政治をし、人間が人間らしく生きるために絶対必要な思想の自由を強制的に押さえつけるという状況に無性に腹が立っていました。法律実務家として少しでもこのような状況に反抗できないかという気持ち」と「こういう性格では人にあーこー指図される仕事は勤まらない」と思った直彌青年は高等文官司法科試験を受け卒業後すぐに司法省に司法官試補として入省する。官邸での試補の任命式「東条英機という総理大臣の国民の立場を無視した考え方や態度を目撃」直彌青年は役人になって何か役に立つことがやれるか不安になった。
 同期の多くが招集され30名ぐらいしか残らなかった。第二乙種だった直彌青年も当然招集と成るはず。待てど暮らせど令状は来ない。未だに謎。どうも招集台帳の真中の閉じしろのところに名前があり、たまたま見落としになったというのが環先生の推理。先生は1945年5月横浜地方裁判所検事局に任官することになる。検事として自分の考える正しい検察権の行使ができるのではないかと張り切る新進気鋭の環検事24才だった。
 敗戦を挟んで油糧公団事件、昭和電工疑獄事件などの権力犯罪から一般の事件まで忙しいときは自宅に帰るのが週に2,3度という生活だった。忙しいのはともかく環検事はしだいに検察の官僚的な考え方になじめなくなる。事実を疑い自分で考え庶民の視線で見直し民の立場で事件をやってみようと、思ってもいなかった弁護士に転進する。ヤメ検29才であった。
 そして11年環弁護士は大活躍。贈収賄事件や選挙違反事件など多数の事件を担当する。チャタレイ事件、関税法没収事件、造船疑獄事件三鷹事件など著名事件も多かった。庶民の刑事事件も相当数担当した。環弁護士は事実を探求し、正しいと思うことは果敢に主張するという在野精神を守った。もちろん忸怩たる思いもある。
 もう二度と役人にはなるまいと思っていた環弁護士40才不惑の年、再び裁判官に任官。今で言う弁護士任官である。相当数の無罪を取ったがどうしても主張が聞き入れて貰えない事件もあった。表現の自由に無理解な裁判官に出会うと絶望感に似た気持ちになった。何とか少しでも裁判所に入って自分の姿勢を示したい。環弁護士は一人で裁判所に任官申し込みに行った。人徳か人脈か、裁判所がまだ健康だったからかなぜか採用となる。水戸を振り出しに大阪高裁まで25年の裁判官生活が始まる。
 奥様が東京の整理に追われ水戸には中学生の一人息子と子連れ赴任、裁判所の中に住んでいた。食事は全部店屋物、裁判所の用務の人が世話してくれたという。1961年そんな時代もあったのだ。酒好き人好きの環裁判官もちろん酒盛りに事欠かない。裁判所の職員から修習生まで官舎でもの飲み屋でも環親分は郎党引き連れ荒らし回ていたに違いない。東京地裁に来ると環裁判官以上の酒飲みがいて夕方裁判所でメザシを焼いていた。「さあ、飲もう」東京地裁でそんなことが許されていた。
 環裁判官は何も酒ばかり飲んでいたわけでは無い。異色のリベラル派裁判官として決して威張らずへつらわず自らの信ずるところに従い自由人として裁判を続けた。そんな中で「法を厳正に適用するだけ」という判断は実に明快であった。違憲も遠慮せず令状も法に従うのみ。しかし環裁判官は説諭はしない。嫌いである。裁判の中だけで判断をするのが裁判官の仕事。人生観や生き方それぞれの人の自由な精神の問題なのである。「私の裁判官としての評価は様々です」環先生らしい。裁判官懇話会の活動は環裁判官のもっとも思い出深い事だったと言う。人が人をその思想で差別し裁判官の自由と独立が犯されることは環先生にとって自分自身を否定されることなのある。
 定年後16年弁護士をやっているのに未だに無罪を勝ち取れない事を先生は嘆く。裁判官の質や裁判所の在り方にも心配が募る。店じまいは早すぎる。先生にぴったりの名リベルテ法律事務所でインタビュー。「寺井一弘弁護士がいつまでもここにいて貰うといってね」

環 直彌
1921年2月徳島県で生まれる。1943年東京帝国大学卒業、同年高等試験司法科合格。1945年〜50年検事(横浜・東京)1950年〜61年弁護士1961年〜86年判事(水戸・千葉・東京・横浜・大阪高裁)1986年弁護士再登録


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