法と民主主義2002年5月号(目次と記事)

★特集★●新「国家総動員法」を許さない!
◆特集にあたって………編集委員会
◆有事法制ーその全体像と法律家の役割………小林 武
◆有事法制準備の歴史と今回法案上程の背景………清水雅彦
◆「有事法制」法案の立法スケジュール………内藤 功
◆恒久平和主義に照らしての有事法制の問題性………荒井誠一郎
◆人権論からみた有事法案の問題点………愛敬浩二
◆民主主義を圧殺する有事立法………小澤隆一
◆「戦時」三法案と地方自治………白藤博行
◆防御施設構築措置について………内藤 功
◆有事法制と治安体制………望月憲郎
◆有事法制に日弁連も反対です………川中 宏
◆有事法制に反対する大きな輪の中で
    大津健一/中尾 猛/新倉裕史/富山洋子/田中千恵子
    玉田雅也/村中哲也/高田 健/元山俊美/堀江ゆり
    清水鳩子/平山誠一
◆資料

 
時評●「銀行税条例」違法判決は誤謬

日本大学名誉教授 北野弘久

 大銀行は、税法上さまざまな租税特別措置による保護を受けてきた。バブル崩壊後は巨額の公的資金の注入を受けた。しかも、一般大衆からの預金に対してもほとんど利息を支払わないが、貸付金の利息はちゃんと徴収している。これでは「業務粗利益」(一般企業の「売上総利益」)が大きくなるのは当然である。東京都によれば、大銀行はバブル期を上回る「業務粗利益」をあげながら、過去の負の遺産の不良債権の処理によって、「所得」基準ではほとんど法人事業税を納付していない。この情況は他の業種に比較してきわだっていて、当分、好転の見込みがない、という。

 法人事業税は、現代企業の現代的担税力をとらえるために「所得」以外の「外形基準」をむしろ課税標準の本則とする事業活動規模税ともいうべき法的性格をもつ。

 右の法人事業税の法的性格に鑑み、二〇〇〇年四月に東京都は大銀行に対し五年間に限って法人事業税の外形標準課税を行なう条例(以下「本件条例」という)を制定した。大銀行の不公平税制を是正し、現行法のもとで自治体の自主財政権を確保することになるとして、多くの国民から、本件条例制定は支持されたのであった。筆者は、約三〇年前に美濃部亮吉東京都知事の提唱に係る法人事業税・法人住民税の不均一課税条例(大企業の税を重くして中小企業の税を軽くする)の制定にあたって税法学者として理論的に協力させていただいた若き日の頃の体験的先例(拙著『新財政法学・自治体財政権』勁草書房二八五頁以下所収)のことを想起して、早くから本件条例制定を高く評価したのであった。

 しかるに、去る二〇〇二年三月二六日東京地裁判決は、地方税法七二条の一九の「事業の情況」に反するとして本件条例制定を違法・無効と判示した。東京都は控訴した。この判決は、一見、行政を負かして正義感あふれるようだが、結局は大銀行の「ゴネ得」を正当化した。判決は、前出の不均一課税条例制定などでほぼ三〇数年前に確立されている本来的租税条例主義などの税法学理論を全く無視するという誤ったものであった。

 すなわち、判決の基本的誤りは、法人事業税についても租税法律主義が適用されることを前提として、いわば法律が委任した場合にのみ例外的に租税条例で規定できるとする委任租税条例主義的考え方に立っている点である。このため、地方税法七二条の一九の「事業の情況」の法的意味を異常といえるほどにリジットに解するという基本的誤りを犯した。
 日本国憲法三〇条・八四条の租税法律主義の規定を地方税について引用するときは、両条の「法律」はすべて「条例」そのものを意味する。地方税については、住民は、国の法律である「地方税法」によって法的に納税義務を負うのではない。住民は、主権者住民の代表機関である各地方議会の制定した各租税条例のみに基づいて法的に納税義務を負うのである。日本国憲法は、このように、地方税については租税法律主義ではなく本来的租税条例主義を採用しているわけである。国の法律である「地方税法」は、枠規定を含めて条例制定のための「標準法」にすぎない。東京都の法人事業税をどうするかは、その課税権を有する都議会の判断と決定に基本的にゆだねられることになる。それゆえ判決はあまりにも重大な本質論的誤謬を犯した。また、判決は、法人事業税の法的性格を前出「外形基準」をとり込んだ「応能課税」であるのに、「所得」課税のみの「応能課税」として誤った結論を正当化した。その他数多くの誤りを犯した(詳細は『税経通信』二〇〇二年六月号)。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

撃ちてし止まん勝つまでは行き行きてここに 宮澤洋夫

弁護士:宮澤洋夫先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 宮澤洋夫先生は東京を去り浦和の地で三〇年間埼玉総合法律事務所を創立から支えて来た。今年七五歳だが一〇歳は若い。仕事も多く近所のホテルが定宿なのだそうだ。インタビュウを申し込むと事務局長の工藤さんが「家にはあまり帰りませんから」とすらっと言う。家庭の事情があって帰れないのかと私は心配した。

 埼玉総合は裁判所を出て浦和駅に向かい歩き始めるとビルに掲げられた大きな看板が目にはいりすぐわかる。賃借していたビルの隣りのビルを購入して三年、六階建ての堂々たる事務所で弁護士一一名司法書士一名事務局一六名、一〇月には三名の新人弁護士が入所し総勢三一名となる。「人権を守る砦」として長く幅広い活動をしてきた。宮澤先生の弁護士としての歴史でもある。

 昨年の夏の終わり八月三一日、三三期の大久保和明弁護士が事務所から裁判所向かう途中、検察庁前の歩道で崩れ落ちるようにして倒れた。あの大きな体は、救急車が来る前事務局次長の山崎君が駆けつけた時もう反応が無かった。五月に心筋梗塞で手術元気に仕事に復帰していた。大久保和明弁護士は体も声も態度もでかいが繊細な大器、顔立ちは環太平洋系「法曹界の、高見山」、愛すべきナイスガイだった。もういない大久保弁護士の後を今年新人の三人の弁護士が埋める。「居なくなって事務所も寂しくて」宮沢先生は笑うように言う。

 埼玉の地で宮澤先生は二〇年間革新畑県政を支え、多くの弁護士を育て、もちろん多くの事件を担当し会務もこなし法律家団体活動も支え今でも元気に第一戦に立つ。
 宮澤先生の経歴は波瀾万丈である。生まれは長野県東筑摩郡坂北村。六人の子供の二男、兄は当時の世相か軍人だった。家は地主、子供達は全員中等学校に進学した。宮澤君も地元の小学校から中学に進学、当時はクラスで一〜二人の進学だった。「僕は秀才ではないので」と宮澤先生。八歳年上の兄の影響と時代の流れか宮澤君は軍人をめざし一九四四年二月、中退して陸軍予科士官学校に入学する。陸士六〇期、まだ一七才の少年だった。しかし戦争は最終の舞台に突入していた。陸士の最後の入学生は六一期で粗製でも多数の幹部が要る慌ただしい時代になっていた。宮澤君は質実剛健の軍国主義教育の中で「鬼畜米英」の敵に向かう若き士官候補生となる。

 さて予科を一年余で終え、宮澤君は四五年三月二七日本科の陸軍航空士官学校に進む。四五年といえば三月一〇日に東京大空襲があり、その前から東京周辺の陸軍の施設は空襲を受けていた。士官候補生も飛行場目がけて攻撃してくる敵機に応戦する。宮澤君の現実の戦争体験はこんなものである。そして東京空襲の翌日たまたま外出許可が出ていた宮澤君は池袋周辺の惨状を目の当たりにし圧倒的な米軍の力を認識する。がしかし自分は士官候補生として皆の範となって戦って死ぬとの諦観は揺るがなかった。四月一日米軍は沖縄に上陸を開始し本土決戦は間近となった。宮澤君たちはもちろん特攻隊になるため訓練を始め、まずは隊付教育そして六月には満州で飛行訓練が行われることになっていた。
 その間の五月一〇日故郷に遺言として送るために撮ったのがこの写真である。裏に「選らまれて皇空の御垣守 栄えゆく御代の礎として」と記されている。一九才には見えない落ち着いた顔立ちで「死ぬつもり」の宮澤君だったが、戦況は厳しく訓練など出来ぬまま八月一五日の終戦を迎えることとなる。復員帰郷時に一切の資料を消却したが、この写真は郷里に残った「戦前の唯一の記録である」。累々と重ねられた屍にならなかったのは時の偶然である。宮澤君の心は米国に対する敗戦の悔しさと屈辱で一杯だった。

 宮澤青年の戦後は敗戦の悔しさから始まったのである。翌年宮澤君は農地解放に揺れる故郷を後に上京、中央大学に入学する。一年で勉強がつまらなくなり次の年書記試験を受け合格一九四七年四月東京地方裁判所に書記として採用される。日本国憲法の施行は五月三日、裁判所はまだ旧憲法下にあった。戦後のゼネストなど組合運動が盛んなとき、宮澤青年は生来のリーダー気質と陸士の教育の成果か結成間もない全司法の専従若きオルグに変身する。四八年には青年部を全国に結成、全国協議会議長となり大活躍。四九年なんと「鬼畜」GHQの指令でレッドパージとなってしまう。二度目の敗戦。悔しい宮澤青年は公平審査を申し立て二年後に解雇処分は撤回され復職する。担当弁護士は福田力之助、青柳盛雄先生だった。二人とも故人である。つまり宮澤先生は闘う労働者、当事者だったのである。

 復職したものの五一年再度国家公務員試験を受け最高裁に裁判所事務官として採用され、書記官研修所に勤務するがまたまた組合運動に邁進。書記官研修所に労働組合を作り問題となって一九五九年最高裁判所民事局に配置転換。当時全司法は「国民のための司法」をスローガンに活発な運動を展開していた。委員長吉田博徳さんを始め多くの組合員が弾圧を受けていた。

 宮澤さんは三三才から三八才司法修習生になるまで民事局で五年、裁判所を中から見ながら腐らずに仕事をこなしていた。「裁判官に非ずば人に非ず」という裁判所の空気・裁判官のエリート意識に反発し、弁護士として仕事をしようと考えるようになった。一九六三年に司法試験に合格し翌年裁判所を去ることになる。
 研修所では年齢も実務経験もある宮澤さんは「勉強も良くできた」。民事局に居たせいか裁判官にも知己が多い。裁判の当事者でもあり裁判所の職員でもあった宮澤さんは、そのとき波乱の日々に鍛えられ私心のない誰にでも信頼される人になっていた。そしてその芯には見かけによらない強い信念を持つ。誰の立場に立ち仕事をするのかについて揺るがない思想を持ち、生来の勤勉さと楽天的な強靱な精神を持つ先生は弁護士の仕事にぴったりだった。「所内で怒鳴ったりしないのですか」と不躾な私の質問に工藤事務局長は「見たこと有りません」

 「歳で仕事に何倍も時間がかかるのです」喫煙フロアーの六階の奥の執務室で仕事、遅くなると定宿に。所内はパソコンでつながれメールが行き来している。宮澤先生には齋田求弁護士が人間メール役をしているそうである。面と向かってそういわれて宮澤先生はなぜか幸せそうである。突然所員に持たされる携帯の呼出。起床ラッパの着信音が先生の胸のところで鳴る。

宮澤洋夫 1926年長野県生まれ。
45年終戦により陸軍航空士官学校終了。
46年中央大学入学
47年東京地裁・51年最高裁勤務。
63年司法試験合格。88年埼玉弁護士会会長。96年関東弁護士会連合会理事長。


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