平和憲法の初心に生きる
 
      −「国民学校一年生の会」の誕生と活動について
 
                         橋本 左内
 
 拙著『国民学校一年生の会 ある少国民の戦中・戦後』が、刊行されると、各方面から「私も同期生よ」、「読みましたよ。よく書いてくれました」「僕も『国民学校』こだわり人間です」という類いの声がかけられ、手紙が寄せられるようになりました。最初に声をかけて下さった広島の湯川寛子さんと鹿児島市で中学校同期生であった日隅禮子さんと私の3人が1995年の原水爆禁止世界大会の折りに、原爆ドームの間近の食堂で懇談し、「国民学校一年生の会」をつくりたいということを申し合わせて、連絡を取り合っていました。その翌年の春に、ある全国集会で私が発言するのを聞いて、私が例の本の著者であると分かった3人の紳士が「読みました」と寄ってこられました。高岡岑郷・大野章・故佐々木修の3氏です。そこで、会を作る予定があることを紹介すると、是非やろうと意気投合して準備会を重ね、1999年12月8日(「大東亜戦争」勃発の日を意識しながら)に結成総会を開く運びになりました。私の作った「国民学校一年生紳士録」などで同期生の著名人をリストにつくり、結成総会の記念の話を世話人代表の井上ひさしさんが引き受けてくださり、充実したスタートを切ることができました。
 この会の「申し合わせ」(橋本が起草し皆で修正)は次のように述べています。
 
 私たち昭和9(1934)年4月2日から昭和10年4月1日の間に生まれた者は、昭和16年度から昭和21年度までの6年間を「国民学校」生徒として、天皇制軍国主義の教育と戦後の民主主義教育を受けました。私たちは、太平洋戦争以前の「尋常・高等小学校」も敗戦後の「小学校」も経験しなかったという数奇な巡り合わせの学年でした。こうした学制がつくり出されたことは決して偶然ではなく、明治維新以来の政治が推進してきた政策の1つの結果です。
 まさに、歴史の光と闇とが交錯する時空を、国民学校・新制中学校の生徒として生きることに巡り合った者です。戦時中の教育は人間性にたいする闇の支配でした。これに対して、1945年の2学期から模索され、1947年から本格的に実施された『あたらしい憲法のはなし』(文部省編)の学習は希望の太陽として心の中に輝き、今日まで光となりエネルギーとなって私たちを導いています。しかし、私たちと一緒に民主・平和教育を受けたはずの世代が国政を担当する時代になったのに、政権の座にある者やその党派に属する者たちは、民主主義と平和を忘れ、憲法に違反する軍隊を合憲だと強弁し、海外派兵を強行し、再び軍事大国になることを追求し、さらに国内外の人びとの多大の犠牲によって贖われた平和憲法を改悪することまで政治日程に乗せようとしています。
 この危機にあたって、私たち「国民学校一年生の会」は「6・3制教育」の初心である民主主義・平和主義・基本的人権の尊重の立場に堅く立って、再び戦争を起こさないために必要な研究・調査・交流・運動をすすめる必要を覚えます。また明治維新以来の富国強兵・殖産興業の政策が戦後も改められていないために、国内のみならず世界の人間関係と自然環境の破壊を推し進めていることも視野に入れて、『あたらし憲法のはなし』で学習したとおりの「戦争放棄」を日本にも世界にも実現することをめざして、核兵器も軍備も環境破壊もない地球を子どもたち孫たちに手渡すために尽力することをめざします。
 
 討論の結果、この数奇な1年間の生まれでなくても、国民学校に生徒として・教師として少しでも関わった者、そして趣旨に賛同する人は老若を問わず会員となることができることになりました。現在、80歳代から30歳代までの幅広い方々が全国から参加して、それぞれにできる活動を進めています。全国版としての活動の主なものを挙げますと、毎月の世話人会、2〜3カ月に一度の勉強会(講演会)、勉強会のまとめを中心としたニュースの発行、地域の集会と交流会、年1回の総会、そして時宜に叶った声明・行動などです。地域としては、これまでに北海道、京都、長野に会ができて、地域の特性にあった取組みをしています。対外的な活動としては、
@二十一世紀へのアピール(2000年12月16日)
A小泉首相の靖国神社参拝中止の求める申し入れ(2001年8月4日)
B子どもたちには、戦争を賛美する教科書ではなく、成長・発達にもっとふさわしい教科書を手渡ししてください(2001年8月4日)
Cテロ行為と戦争に反対する声明(2001年9月17日)
D教育基本法は「教育の憲法」−私たちはその改悪を許さない(2001年12月8日)
E私たちは、日本を「戦争国家」にすることを絶対に許しません−「有事法制」と個人情報保護法案など「メディア規制」法案に反対します−(2002年5月2日)
F私たちは、あの「少国民」の時代を許さない−有事法案の制定と教育基本法の改悪に反対する(2002年11月30日)。以下略
 
 会員でもあった教育学者の故大槻健さんに「国民学校は植民地にもあったのだから・・・・」と指摘されてから韓国や台湾で行われていた「國民學校」を訪ね、韓国では母国語を奪われた屈辱の中から解放後は決して日本語を使わなかった御婦人が、初めてその苦難の時代を日本語で語って下さったのは何よりの教材となりました。
 台湾では、日新國民学校の卒業生呉朝鴻さんが天皇制軍国主義を謳歌する「校歌」を完璧に暗記しており朗々と歌われたのには教育の恐ろしさを痛感しました。
 今年の5月には中国東北部で「在満國民學校」の痕跡を牡丹江から男の子に変装して引き揚げの逃避行をした世話人代表の滝いく子(詩人)さんらと共に国民学校一年生の会として《「残留」孤児の故郷&『国民学校一年生』のいまを訪ねて》の旅をしました。時あたかも、いわゆる「反日デモ」で旅の安全が危惧された時期でしたが、「この時こそ訪ねるべきである」と実行しました。
 最初の見学は、偽皇宮=旧満州国皇帝溥儀の居所でした。日本も遅ればせに参加した植民地主義列強の侵略の手口の狡猾さと残忍性が事実によって証明されています。
 第二の訪問先は、「残留孤児」たちを育てて下さった養父母の方々が住まわれる「日中友好楼」でした。80歳を超えた方々が、「何も欲しいものはない、ただ、子どもたちの顔が自由に見られるようにしてほしい」と言われました。孤児たちの育った故郷中国と母国である故郷日本の二重の意味を込め、私たちの伴奏(洞井のハーモニカ、私の尺八)で「故郷」を合唱しました。老父母の目にも私たちの目にも涙が溢れました。目下進行中の《「残留孤児」国家賠償訴訟》に勝利して、この「親子たち」の自由な往来を一日も早く実現することを心に期したのです。
 第三の訪問先は、ハルピンの元桃山國民學校(現・兆麟小学校)で、滝代表が牡丹江の國民學校のこと、引き上げのこと、謝罪と友好の挨拶をし、懇談をしました。
 四番目は、「侵華日軍731部隊罪証陳列館」でした。以前に東京でも見たのですが、「悪魔の飽食」と表現された所業に魂の消え入る思いでした。私は代表者の一人として、日本軍の人道に対する犯罪を謝罪し、今なお日米に継続されている「悪魔の所業」を阻止するために力を合わせることを申し合わせました。
 五番目は、「9・18事変陳列館」です。中国侵略の口実づくりのためにデッチ上げた柳条湖鉄道爆破事件の真相が展示されています。中国東北部の至る所に「勿忘9・18」のスローガンが掲げられていました。「リメンバー・パールハーバー」とともに「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」を心を同じくして訴えることの大切さを痛感したのでした。
 六番目は、「平頂山惨案(惨劇)遺趾記念館」への巡礼です。「見学」「参観」「訪問」という表現は不適当に思い「巡礼」を用いました。この事件は解説を要します。撫順市の郊外に露天掘りの炭坑があります。日本軍と企業はこの石炭資源を略奪しました。これに対して、抵抗されたことを「匪賊(抗日ゲリラ)」の仕業と断定し、ゲリラが潜入していると見た平頂山の村人三〇〇〇人余人を河原に呼び出して、機銃掃射で全員射殺し、河原の土手を爆破して遺体をすべて埋めて証拠隠滅をはかったのでした。奇跡的に生き残った人々の証言に基づいて掘り返し「遺骸の河」を発見したのでした。現在はその三千余体の遺骸に鉄筋の覆いをかけ「惨劇の遺跡」として保存し、全ての人に公開しているのです。
 終わりから二つ目の訪問先は、「撫順戦犯管理所」でした。天皇制軍国主義の「教育勅語」教育によって「人間から鬼へ」と洗脳され殺人鬼となって中国人虐殺を誇っていた皇軍兵士が教育と労働によって回心し「鬼から人間へ」回復された「撫順の奇跡」が実際に行われた現場の土を踏みながら、平頂山の悲劇と思いが重なり一片の漢詩が沸き上がってきました。これを、この跋文の結びとさせていただきます。
 小泉純一郎君も、「平頂山惨案遺趾」に立ち、撫順戦犯管理所の床に立って「巡礼」の心を回復されることを勧めます。靖国神社に「神として祀られている兵士たち」には、これら「鬼」の所業を働いた者もあるのです。どうして「神」でありえましょう?どうして「英霊(すぐれた人の霊魂)」でありえましょう?そのような戦争犯罪者を顕彰し、侵略戦争を美化する靖国神社に「参拝しないで下さい」という慎ましい要求が、どうして「内政干渉」になるのでしょうか?内政干渉というものより何万倍もの侵略を犯したことを謝罪も補償もしないままで、どうして「未来志向」ができるでしょうか?戦犯たちが学習を通して自ら「犯罪」の重篤なるを知り、判決で「起訴免除し直ちに釈放」を言い渡され、天を仰ぎ手放しで慟哭して人間性を回復した元兵士たちの心に巡礼したとき、誰が「内政干渉」などと評論家めいた妄言を吐くことができるでしょうか?
 日本国憲法・戦争放棄・第9条・基本的人権もまた、こうした慟哭で魂を洗い流した懺悔の中から産み出された日本民衆と世界市民の「真珠の首飾り」なのです。
 
 
   人類の希望(平頂山の奇跡に寄す)
 
噫平頂山万人坑   ああ、平頂山万人坑よ、
誰見此遺骨之河   誰かこの遺骨の河を見て
流涙宛如巨瀑流   流涙宛も巨瀑の流るるが如く
安許捨審日帝罪   安ぞ日帝の罪の審き捨つるを許さんや。
其時我齢但幼童   その時我が齢但幼童なりしと謂えども、
當今可負国家罪   當に今この国家の罪を負うべきなり。
観童玩具骨群間   骨群の間に幼児の玩具を観る、
瞬壊庶民住団欒   瞬時に壊せり庶民の団欒に住するを。
悪魔所業見前史   悪魔の所業之を前史に見る、
信長殺戮儘一揆   信長は一向一揆の家族乳児までを殺戮せしを。
此是軍国常套業   これ、軍国主義の常套手段ならんのみ、
當銘心兵戈無用   當に「兵戈無用」を心に刻むべし。
報復此悪魔所業   この悪魔の所業に報いんには、
対罪不為罰与恨   罪に対して罰と恨みを為さず、
以臨教育改革策   教育改革の政策をもって臨めり。
戦犯管理所奇跡   この戦犯管理所の奇跡は
但停宗教的救済   但に宗教的救済に停まらず、
回復人心兵鬼心   兵の鬼心を正して人間性を回復し、
改造平和之証人   平和の証人に改造せり。
心贖罪人類之望   この新しい贖罪は人類の希望
世界當此学奇跡   世界は学ぶべし此の奇跡を。
 
 二〇〇三年五月一三日
              国民学校一年生の会 橋本 左内
 
 帰国後、佐藤行通師(元日本山妙法寺僧侶。平和運動の先頭に立って世界を行脚された)にお会いして、この漢詩をお目にかけたところ不備なところを添削し、整えて下さいました。
 敗戦により、陸軍大佐で退役。無条件降伏を許しがたく戦闘機を操縦して戦艦ミズリー号に体当たりを計画したが果たせず、信徒である中将に勧められて日本山妙法寺に入山して平和のために献身された師はまた日本国憲法の生き証人と言えるでしょう。
 最後の訪問先は、撫順石油化工大学・日本語学科の教室で、授業参観と教室での懇談でした。実は、国民学校一年生の会の会員で常任世話人の山本俊廣さんが、3年前に平頂山の奇跡に出会い、自分も日中友好のために働きたいと発心し、中国語をマスターするために同大学に留学したのです。そして、教授や学生と親しくなり、今度、私たちが訪問する際に、何か交流したいと考えた末に、授業参観が実現したのでした。
 授業は、日本語の教科書の素読とコーラスリーディングでした。今日では、日本の高校レベルでもなかなか出来にくい、素読とコーラスリーディングが、何の抵抗もなくスムーズに行われていました。「富士山はほんとうにあるのだろうか」というエッセイです。一通り進んだ段階で、質問や意見があったらということで、最初に私が富士山について発言した後、高岡岑郷事務局長が、皆さんは日本国憲法9条をご存じですか、と尋ねたところ、誰も知りませんでした。そこで、用意して行った9条の中国語訳を全員に配布して、その歴史と趣旨とを話しました。その後、『お国ことばで憲法を』運動の先頭に立っている常任世話人で方言指導者の大原穣子さんが9条を朗読しました。日本人が中国について知らないことが多いように中国の皆さんも日本について、肝心のことも知らないのだということも分かりました。その意味では、今度の中国東北部の旅は日中両国民にとって大切な交流の接点を共有することが出来た旅でありました。ここにこそ、本当の「未来志向」を具体化する道があることを強調したいと思います。
 全国各地で「国民学校一年生の会」を開いていますが、その会場でもその他の会場でも、この本を求める方々が絶えません。新日本出版社で産声を上げさせていただいたお陰で、このように運動が発展し深化されつつあることに心から感謝をささげるものです。5刷も版元切れになったので6刷をお願いしましたが会社の都合があって出来なくなりました。何とかしたいと思案しているとき、日本友和会(フェローシップ・オブ・リコンシリエーション=和解に基づく友情。世界に支部組織を持つ絶対非戦平和主義の団体)で同じ理事をつとめる舘政彦さんが経営する出版社のエルピス(ギリシャ語で「希望」)が、改訂版を出すことを引き受けてくださいました。また、新日本出版社も版型を委譲してくださったので再版が容易になりました。両出版社に対し心より感謝いたします。
 版を改めるにあたり、カバー表紙を新しくしようということになり、デザインは私がしましたが、切り絵は京都の会員で「立命館平和ミュージアム」の語り部として御活躍中の布川庸子さんにお願いしました。『あの戦争を伝えたい』(かもがわブックレット)で秀れた切り紙芸術と文章を示された布川さんのメッセージも味わってください。
 この本の収益は、将来に夢みられている「ある平和資料館」(「無言館」につづく。そこに国民学校一年生の会のコーナーを設置する予定)の設立資金の一部に充てたいと思いますので、積極的に御活用くださるようお願いいたします。
 2005年6月23日(沖縄戦終結60年「慰霊の日」に)
 ※『国民学校一年生の会 ある少国民の戦中・戦後』跋文より転載