更新弁論要旨
(事実論について)
 
弁 護 士  井   上       聡
 
 
 今、原告ら残留孤児たちは、非常に厳しい状況に追い込まれている。
 甲71号証のとおり、平成12年度生活実態調査によれば、調査時点におけるいわゆる「残留孤児」の生活保護受給率は、いわゆる「残留孤児」で65.5%という状況である。
 一般的に生活保護の受給者が年々増えているとはいえ、厚生労働省の統計資料によれば、日本全体の保護率が、2003(平成15)年度で1.05%であることを考えれば、「残留孤児」の生活保護受給率の異常さが際立っている。
 孤児たちが、このような悲惨な状況に追い込まれたのは、国が、早期に孤児たちを帰国させる義務を怠ったばかりか帰国後も孤児たちが真に「自立」できるよう十分な支援を行ってこなかった結果である。
 
 
1 満州国建国と移民政策
 
 そもそも、孤児たち及びその親たちは、自ら進んで満州国へ渡ったわけではない。戦前、国は、中国東北地域を侵略し、そこに傀儡国家である「満州国」を建国し、1936(昭和11)年には広田内閣が満州農業移民を7大国策のひとつにとりあげ、20年間に100万戸、500万人の日本人を満州に移住させるという大規模な移民政策が決定され、日本から続々と移民団が送り込まれていった。
 満州国の建国からその崩壊及び残留孤児が生み出された原因について理解して頂くために、岡部牧夫氏を証人として採用して頂きたいが、同氏の「意見書」に述べられているように、満州移民は、対ソ防衛と軍への食料や軍需品の供給源の確保とともに、国内農村の疲弊とそれにもとづく社会的矛盾をそらす安全弁の役割果たす目的で、まさに国策として行われ、そこでとられた分村移民方式は、「棄民」としての性格を有していた。
 こうして、国は、続々と開拓団を満州へ送り込み、1945(昭和20)年5月時点における開拓民の人数は、総計32万1874人にも及んだ。しかも、その後も、国は、ソ連参戦通告の1945(昭和20)8月8日まで、一切戦時状況の切迫さを知らせず開拓民を満州へ送り続けた。
 
 
2 残留孤児が生み出された要因
 
 ところが一方で、国は、1945(昭和20)年4月5日にソ連が日ソ中立条約の不延長を日本政府に通告したことにより、ソ連の参戦が近いことを予測し、同年5月30日には、早くも@朝鮮半島及びこれに近接した満州地域を絶対的防衛地域と決定するとともに、A満州の4分の3を持久戦のための戦場とすることを決定し、当該地域の防衛と民間人の保護を放棄してしまったのである。
 同時に、国は、戦局の悪化から、同年7月10日、在満邦人のうち18歳以上45歳以下の男性全員を召集する「根こそぎ動員」をし、国境付近に配置した。
 その結果、満州・内蒙古の開拓団には、ほとんど高齢者・女性・子供しか残らず、その後の逃避行の過程で多くの「残留孤児」が生まれることになったのである。
 また、ソ連の参戦が目前に迫っているにもかかわらず、国は、開拓団らにひたすら事実を隠し、1945(昭和20)年8月2日、関東軍報道部長長谷川宇一大佐は、新京放送局から「関東軍ハ盤石ノ安キニアル。邦人、トクニ国境開拓団ノ諸君ハ安ンジテ、生業ニ励ムガヨロシイ。」と誤った情報まで流していた。こうした状況下において、1945(昭和20)年8月8日、ソ連が対日参戦通告をし、翌8月9日午前零時を期して、ソ連軍が満州に侵攻を開始した。大本営・関東軍から全く情報もなく、戦況について一切知らされていなかった開拓団民は、真夜中突然のソ連軍の侵攻に曝され、混乱し、多数の犠牲を出しながら避難を開始することになった。
 しかも、関東軍は、軍人・軍属とその家族を後方に輸送することに熱中し、民間人の保護を全くなさず撤退してしまったのだ。
 こうして戦況も終戦をも知らされず、関東軍の保護も受けられず、しかも根こそぎ動員の結果高齢者と女性及び子供しか残っていない開拓団の避難は困難を極め、ソ連軍等の襲撃による殺戮、強姦、強奪、集団自決等により多大の犠牲者を生み出した。
 こうした中、一日も早い在満邦人の保護と引揚げが強く求められていたにもかかわらず、在満邦人の引揚げは、他の海外在留邦人地区に比して大幅に遅れることになり、満州からの第一次引揚げ船が出航したのは1946(昭和21)年5月のことである。
 その結果、ようやくハルピンや新京等の都市にたどり着き、難民収容所に保護された開拓団民たちも、極寒の中、満足な食料も衣服もなく、食料欠乏や伝染病等により、餓死者・凍死者・病死者が相次ぐという状況が生まれた。
 原告ら「残留孤児」たちの多くは、こうした過程で親を失い、中国人に引き取られた人たちである。
 
 
3 引揚・未帰還者調査から取り残された孤児たち
 
 中国からの引揚は、遅れながらも1946(昭和21)年5月に開始された。しかし、終戦後の引揚業務において、国は、軍人たちを優先し、一般邦人の引揚・調査体制は極めて不十分であった。まして,終戦時幼児だったために消息調査がひときわ困難な孤児の調査や引揚について,国は何ら特別の手立てを講じようとはしなかった。
 それでも国は,1957(昭和32)年1月1日現在において,中国には「6、7千名以上1万人以下」の未帰還者が生存していることを認識し,未帰還者名簿には「中国人等に養育されている孤児」2,053名を搭載して,これら孤児につき「特別の事情のない限り現在も生存していると推定される。」、「生存している公算が大」との認識を示していた。
 ところが、国は、留守家族手当の打ち切りの必要性という財政上の理由や政策的判断を優先し,未帰還者の「最終処理」を図るため、1959(昭和34)年、未帰還者特別措置法を制定し、その結果、同法施行時20,789人とされていた中国の未帰還者のうち実に7割弱にあたる約14,000人が,1976(昭和51)年12月末日までに戦時死亡宣告を受けるに至ったのである。
 この戦時死亡宣告制度は、建前上親族の同意を必要としていた。しかし、現実には、国が、親族を強引に説得し、戦時死亡宣告へと誘導していく手法がとられた。
  また、国は、戦時死亡宣告がなされてもその後も調査を継続していたと主張しているが、中川昇氏の尋問結果からも明らかなように、それは、死亡日時を特定するための調査であり、生存の可能性を前提とした調査ではなかった。
 未帰還者特別措置法は、まさに未帰還者の最終処理を急ぐための制度であり、国は、未帰還者を大量に「死亡」処理し,その数を激減させることにより,未帰還者に対する調査究明及び帰還促進を放棄するとともに、引揚問題・未帰還者問題は終了したという認識を広く世間・一般社会に広め、残留邦人の調査・帰還に幕引きを図ったのである。
 その結果、日中国交が回復する1972(昭和47)年まで13年間もの長期にわたり空白期間を生じさせることになってしまったのである。
 これらの事実は、「究明用カード」の分析によってより明らかとなる。
 原告らは、昨年8月、戦後「未帰還者届」が出された者について「究明用カード」が記録・保存されていることを知り、これまでに国から合計15名の原告について「究明用カード」のコピーの開示を受けた。コピーは、多くの箇所にマスキングがほどこされ、肝心な事実が隠されており、判読が困難な部分が多々ある。しかし、仔細に検討すると、@厚生省が、留守家族に対し、執拗に「戦時死亡宣告」に同意するように強力な「説得」を繰り返してきたこと。A厚生省は、一旦「戦時死亡宣告」を獲得した途端に、当該「未帰還者」に関する調査を打ち切ったこと。B厚生省は、「残留孤児」の所在探しは、あげて留守家族の責任とし、自ら積極的な行動をとったことがないこと。などの事実が浮き彫りとなってくる。
 原告らは、今後の審理の中で、この厚生省作成の「究明用カード」のコピーを証拠として提出し、1959(昭和34)年から1972(昭和47)年までの13年間に、国が、非道にも、中国残留孤児の存在を隠蔽し、わが国の社会と歴史から廃棄しようとしていたことを明らかにしたいと考えている。
 
 
4 日中国交回復後の早期帰国義務違反
 
 1972(昭和47)年、日中国交が回復し、中国の日本大使館等に帰国や親族調査を求める孤児たちの要望が殺到した。
 しかし、日中国交回復後も、孤児たちの帰国は遅々として進まなかった。その最大の原因は、残留孤児問題を国の責任と捉えず、孤児たちの帰国問題を戦後の引揚援護策の延長線上で捉え、孤児の帰国を孤児本人及びその親族の責任に転嫁したことにある。
 そもそも原告ら孤児たちは,終戦時幼児であったが故に,自らが日本人であるとの認識すら持ち得ない者もあり、身元の判明しているものはほとんど存在していなかったのであるから、単に原告らの申し出を待つのではなく,「孤児」の存在を探索する調査究明を行なうと共に,孤児に対して帰国の呼びかけを行なうことが必要であった。
 そのため、国としては、国交回復後直ちに,外交ルートを通じて,中国政府に対し,「残留孤児」に関する情報を提供し,その所在調査と肉親探し及び帰国実現の為の協議を申し入れ,すみやかに訪日調査を開始するべきであった。
 また,国内においては,「孤児」らから殺到した身元調査依頼に関する情報を直ちに公開し,肉親捜しを積極的に進めるべきであり,肉親が判明しなかったり,判明しても親族が帰国に同意しない孤児についても,帰国を希望する以上,直ちに帰国できる措置を講ずるべきであった。
 ところが、国は、一度戦時死亡宣告で戸籍から抹消した死人の身元調査に予算を計上できないとの態度を取り、日中国交回復後も「残留孤児」の実態調査や肉親探しに積極的に取り組もうとはしなかった。
 1975(昭和50)年3月、国は、世論に押されて漸く公開調査を行ったが十分な成果を上げることはできず、「残留孤児」を日本に招いて訪日調査を行ったのは国交回復から実に9年も経過した1981(昭和56)年になってからのことであった。
 また、国は、孤児の帰国を孤児本人及びその親族の責任問題と捉え、当初、帰国旅費の申請を親族に限定した。同時に、孤児を入管手続上外国人と同様に扱ったため、孤児は身元保証人を探さなければ帰国することが不可能な状態に置かれた。
 その結果、当初は、身元が判明し、かつ親族が帰国に協力してくれた者しか帰国することができず、未判明孤児は、帰国の意思を持っていても帰国することはできなかった。その後、国は、ボランティア等からの強い批判を受け、「身元引受人制度」を創設して未判明孤児の帰国に道を開くようにしたが、同制度が創設されたのは、1985(昭和60)年のことであり、親族の代わりに身元引受人に責任を押しつけるというものであった。また、判明孤児についても、親族の協力を必要としていたため、親族の同意が得られない孤児は、身元が判明したが故に帰国できないという矛盾した事態も生まれ、1989(平成1)年に「特別身元引受人制度」を創設せざるを得なくなった。しかし,この制度も様々な制度的欠陥によりほとんど機能しない状態が続き,運用が改善されたのは1994(平成6)年以降であった。
 このように、国が、孤児問題を孤児や親族の個人的問題に矮小化し、孤児の早期帰国を実現させるための総合的施策を確立しなかったため、全てが後手に回り、孤児の帰国が大幅に遅れることになってしまったのである。
 
 
5 国の貧困な自立支援策
 
 帰国後の自立支援策も極めて不十分なものであった。
 終戦からすでに数十年が経過した段階では、「残留孤児」は中国社会で生活をするために現地の言葉や生活習慣を身につけており、単純に引き揚げてさえくれば日本社会で普通に生きていけるという条件ではない。身元確認や肉親探し、帰国旅費の援助等の帰国支援のほか、帰国後の住居探しや、生活費援助、言語教育、職業教育、就職斡旋等の自立・生活支援、さらには一緒に帰国してくる家族のための支援など「普通の日本人」であることを回復できるための総合的な施策を早期に確立する必要があった。
 ところが、国も認めるとおり、そもそも孤児の帰国問題を戦後の引揚援護の延長と捉えるとともに、「残留孤児」問題を「残留孤児」とその親族が自助努力で解決すべき問題と位置づけたため、当初、国は、帰国後の援護を自治体に委ね、国独自として自立支援を行うという施策はもっていなかった。国は、準備書面で様々な自立支援策を行ってきたと主張しているが、これらは、全てボランティアからの度重なる要望に突き動かされ、弥縫的に行われたものに過ぎない。
 国が行った個別の自立支援策の問題点については、準備書面に譲ることにするが、国の施策が極めて不十分だったことは、国が行った孤児らの生活実態調査によっても明らかである。例えば、
(1) 日本語の習得については簡単な日常会話(買い物や交通機関,郵便局,銀行等において一人で用事を済ませることができる)が習得きていないと答えている者が,平成元年の調査で22.1%,平成5年の調査で18.2%,平成7年の調査で27.9%,平成11年調査では,32.7%となっており、帰国後3年以上を経ても片言の日本語しか使えない人が半数近くに上っている。しかも、年が経つほど習得率が悪くなっている。
(2) 日本語によるコミュニケーションが取れないことは、社会・経済・文化・政治その他あらゆる活動を通じて日本社会に参加する機会を奪われ続けていることを意味する。親族あるいは地域から孤立し、国民としての権利である選挙権の行使や行政サービスの教授も十分できないことは、すなわち日本人として日本社会への受入を拒否されているのも同然である。
(3) また、日本語ができないため、職に就けない「残留孤児」も増えており、2000(平成12)年度調査では、帰国後2年は全くと言ってよいほど職に就くことができず、帰国後2、3年してようやく16パーセント程度の人が職に就けるだけである。
(4) さらに、就職できても、ほとんどは単純労務作業にしかつけず、収入も4分の3が月額20万円未満である。
(5) また、「残留孤児」らにも年金が支給されることとなったが、支給額は、通常支給される額の3分の1の月額2万円余りにしかすぎず、到底生活を支えられるものではない。しかも、生活保護を受給した場合、その年金支給額が生活保護費から差し引かれるのである。
   いわゆる拉致被害者支援法では、国が被害者らの保険料を負担することで満額支給されるようになっているのと比べてもあまりにも不十分である。
(6) このため、片言の日本語しか話せない残留孤児らは、生活保護を受給せざるをえなくなっており、冒頭で述べたとおり、帰国後5年を経過しても約7割の孤児が生活保護を受給するという状況となっているのである。生活保護を受給しながらの生活は、行政による監視・監督下の生活を意味する。日常の買い物にも神経をとがらせ、外出や旅行もままならず、趣味や文化活動も制約され、子や孫らとの同居もできない。まして、中国に残した養父母との交流や墓参りさえもできない。経済的自立の困難は、原告ら孤児からあらゆる場面における自己実現を図る道を奪っている。
 
 
 敗戦から丸60年が経過しようとしている。第1次原告40人の平均年齢も64歳となっており、今働いている孤児も数年後には働けなくなる。しかし、蓄えもなく、十分な年金もない孤児たちは、生活保護に頼らざるを得ない。孤児の8〜9割が生活保護受給者となるのもそう遠くないであろう。孤児たちに残された時間は少ない。