更 新 弁 論 要 旨
(本件訴訟の全国化と東京訴訟の意義)
 
弁 護 士  清  水    洋
 
 
1 私は、東京における本訴訟の更新弁論に際し、最初にまず、全国で提起されている中国残留孤児国家賠償請求訴訟の目的とその意味、その中で東京訴訟がもつ意義について主に陳述をする。
 
 
2 政府、国会に見捨てられた「孤児」らの請願運動
 
 2002年(平成14年)12月20日、首都圏に在住する残留孤児合計637名が東京地方裁判所に国家賠償請求の訴えを提起した。これが全国訴訟の先駆けとなった本件訴訟であるが、孤児たちが最後の救済の場として裁判を決意するまでには、長い経過と特別な思いがあった。
 1999年10月、東京と神奈川の孤児団体が中心となって、老後の生活保障を求める国会請願の署名運動を開始し、2001年6月には約11万人の署名を集めた「中国帰国者の老後の生活を保障する議員立法」を求める請願書を48名の議員紹介を付けて衆参両院議長に提出した。日本語をよく話せない「孤児」たちが、勇気を奮って「署名をお願いします」と街頭で通行人に一人一人に呼びかけて集めたものである。紹介議員を要請するために100回以上国会に通ったと、その苦労を聞いている。しかし、衆参両院の厚生労働委員会では、孤児たちの切実な思いは伝わらず、審理未了で不採択とされた。翌年6月に再度請願書を提出したが、結果は同様で、2度にわたり請願は不採択とされた。その間、厚生労働省中国孤児等対策室に対しても、孤児の老後生活の保障についての政策変更を求めたが、当時の対策室長からは「帰国孤児には月額2万2000円の国民年金を支給する。足りなければ生活保護で暮らせばよい。それが政府の政策だ。」とはねつけられた。「それが九死に一生をえて、中国の地で差別され苦しみながら、ようやく帰国した孤児たちに対する政策か。」と怒りの声が噴出したという。国会にも、政府にも老後の生活に対する救済の道を断たれ、このままでは「孤児」たちの殆どが生活保護に転落してしまう。「孤児」たちは司法の場に最後の救済を求める他なくなった。しかし、全国に約2500名いるとされる「孤児」らには全国的な組織はもちろん、互いに連絡しあう術もない現状であった。孤児の高齢化も進み、現在その約70%が生活保護世帯に陥っているなかで、多額な費用のかかる裁判をすることができるのか、そもそも「孤児」を助けて裁判を受けてくれる弁護士がいるのだろうか、裁判をするということは、「孤児」たちにとって想像を絶する難題であった。
 
 
3 東京の集団訴訟の提起と全国への広がり
 
 それでも孤児たちを勇気づけ、集団で国家賠償を求める訴訟を決意させるきっかけが二つあった。一つは、ハンセン病の国家賠償訴訟である。戦前戦中から、戦後にわたって国の誤った強制隔離政策により「人生被害」といわれる差別を受け続けてきたハンセン病元患者さんたちの不屈な裁判闘争により、国の隔離政策を廃止させる画期的な勝利であった。幼く一人取り残された中国の地で、そして帰国した祖国日本でも受け続けてきた戦後50年余にわたる差別の体験は、ハンセン病元患者さんたちの訴えと闘いに共鳴するものがあった。二つは、いわゆる北朝鮮の拉致被害者家族に対する国・自治体の具体的な保障対策である。
 「日本人として人間らしく生きる」ことを求めて2002年4月、東京、神奈川、千葉、埼玉、山梨、群馬の首都圏に居住する孤児たち450人は「中国帰国者東京連絡会」を結成し、裁判に立ち上がった。呼びかけられた弁護士らも、孤児らの戦後の体験を聴取するなかで、これを“人生丸ごと被害”と捉え、過去の問題ではなく、現在まで引き続いている国による人権侵害事件であるとその本質を認識した。2002年12月の東京の第1次訴訟から、南は鹿児島から北は札幌まで相次いで全国各地に原告団、これを支援する弁護団、支援する市民の会が結成された。現在全国14地裁に本件訴訟と同一の国家賠償請求訴訟が係属し、本年5月の仙台地裁への第1次提訴および名古屋、福岡、神戸における追加提訴によって、約2年半の間に、全国約720名の弁護士の助けを得て提訴している「孤児」は1992名にのぼる(別紙「全国各地の提訴と原告人数」)。さらに、東北6県で約100名余の「孤児」が提訴の準備をしており、この7月までには、司法に救済を求める原告は全国の孤児の8割に相当する2000名を越える見通しである。 
 
 
 4 本訴訟の全国化の意義と孤児がおかれた共通の状況
 
 この全国の動きは何を意味しているか。裁判所には、これを重要な社会的事実として、本件訴訟の意義と重みを受け止めていただきたい。全国の「孤児」約2500人のうち約80%に相当する1992人が提訴に踏み切った背景には、まさに人間性を踏みにじるような冷たい祖国の政策に対する「孤児」の共通の怒りがあり、同時に共通に訴えていることは現在の生活状況の困窮と老後の生活への大きな不安である。
 全国の原告の年齢を見ると、当然ほとんどが高齢者となっており、訴訟半ばにして亡くなった孤児もいる。孤児たちにとっては残された時間がない。原告の生活保護受給率は東京を含めいずれの地域でも平均50%を越えており、地方にいくほど特に多く、広島では80%、鹿児島では76%、大阪でも72%を越えている。日本人全体の生活保護受給率が1.05%程度のところ、全国の「孤児」の世帯においては7割以上という異常な数字が「孤児」らの特異な存在とその窮状を裏付けている。
  「孤児」の共通の怒りのもとは、三度にわたる国の「棄民」政策にある。@敗戦に際し老人、女性、子供を中国の地に置き去りにし、残留「孤児」を生みだしたこと、A残留「孤児」の存在を認識しながら戦時死亡宣告の特別立法により「死者」扱いし、以後身元調査、帰国援助等の政策を一切打ち切ったこと、B戦後約40年を経て永住帰国が本格的になったが、適切な自立支援策がないまま、日本語を話せず、分からずの状態で就労を急かされ、低賃金・現場の重労働の仕事にしか就けずに、年をとれば年金もなく生活保護に追いやられることである。
  「孤児」の人々が真に要求していることは、金銭には置き換えられない人間性の回復と老後の生活が安心して暮らせるよう保障されることである。「孤児」の生涯はまさに「差別」による苦しみとそれに対する忍耐といえる。中国の地では侵略者「日本人」の子として、帰国後の祖国日本では日本語のしゃべれない「中国人」扱いにされてきた。言葉の壁は、生活する団地でも職場でも孤児家族を孤立させ、出かけることもできずに家の中に閉じこもる毎日である。家庭破綻も少なくない。家族も分断され、戦後幼少のときから育ててくれた養父母や家族を中国から呼び寄せることもできず、高齢になった養父母の見舞いや墓参りに行きたくとも、生活保護の打ち切りを覚悟しなければ行けないという非人間的な制約に泣く泣く諦めるほかない状況におかれている。 
 全国の原告「孤児」らがこの国家賠償訴訟にこめている思いは、日本政府に遺棄された後の中国での過酷な体験を共通にするだけでなく、ようやく帰国できた後の祖国日本政府の冷たい施策のもとで、自分が持つ資質、能力、資格が生かされず差別否定され、普通の日本人として生きる条件を奪われてきたことに対する怒り、悔しさが共通の原点にある。だからこそ、全国の「孤児」たちは、この国家賠償請求の裁判を「人間回復の闘い」と位置づけている。
 
 
5 本件訴訟の歴史的役割と「孤児」問題の根本的解決
 
 全国の裁判の中で、大阪地方裁判所が約1年4ヶ月、10回の口頭弁論を経て今年3月に結審した。判決は7月6日に指定されている。名古屋、京都も年内の結審が相次いで予定されている。孤児に対する国の責任を問うこの裁判の勝利によって、国に対し、これまでの孤児政策の根本的転換を迫ることになる。とりわけ、全国の原告の半数以上である1000名を超える「孤児」が原告となっている東京地裁での本件訴訟の帰趨は、全国から注目されていることはもちろん、国の政策転換を実現させる意味でより重大な影響力をもつことは言うまでもない。
本件訴訟の基本視点は、中国「残留孤児」問題を根本的に解決する上で、「孤児」の発生から現在に至る歴史経過とその社会的特性を踏まえ、もともと何ら本人に責任はなく、ただただ日本の違法な政策が生んだ犠牲者であるとの認識をもつことが大前提とされる。裁判官にその理解を得るためには、十分適切な審理を尽くしていただくことを希望する。
 被告国は、本件訴訟でもまた全国の各訴訟においても、全国の「孤児」が置かれた現実を直視せず、原告の主張に対し正面からこれに答えようとせず、本論以外の消耗な形式的議論をいたずらに繰り返してきている。この訴訟対応は、中国「残留孤児」問題を発生させた根源である棄民政策の延長として非難を免れない。
 中国「残留孤児」にとって、「普通の日本人として生きられる」ことを可能にする方向で孤児政策が根本的に転換されない限り、未だ戦争は終わらないのである。「孤児」本人およびその家族ら全員に、長時間を要したとはいえ、「日本に帰ってきてよかった。」と喜んでもらえるよう、本訴訟がその歴史的役割を早期に果たすことになることを、願ってやまない。
 
 私の更新弁論を終わるに当たって、孤児らの代表相談役を長く努める菅原幸助氏(80歳)が大阪地裁で証人として立った証言の最後に述べた結びの言葉を、この場においても同様の気持ちを込めて繰り返させていただく。
「これを救うのは司法しかない。裁判に頼るしかない。残留孤児を、この世界の歴史にもないこの悲劇を救うのは、あなたたち裁判官しかいない。」
 
                         以  上