[朝日新聞]2月17日

中国残留婦人 せめて老後の安心を

 「お国のためにと働いた私たちが、なぜ国に捨てられねばならなかったのでしょう」

 戦前から戦中にかけて国策で中国東北部(旧満州)に移住し、敗戦後に取り残された残留婦人は、東京地裁の法廷でそう訴えた。しかし、彼女ら3人が求めた国家賠償は認められなかった。

 敗戦後に置き去りにされた人たちのうち、13歳以上だった女性は残留婦人といわれ、それに満たなかった子どもは残留孤児と呼ばれている。いずれも中国で過酷な体験をし、やっとの思いで日本に帰ってきたことに変わりはない。

 3人の主張は「日本政府は早期に帰国させる義務を怠り、帰国後に自立への十分な支援をする義務も怠った」というものだ。これは孤児たちの主張と同じだ。

 孤児たちは集団訴訟を起こし、大阪地裁で昨夏、最初の判決が言い渡されたが、訴えは認められなかった。大阪地裁に比べれば、今回の判決は原告に理解を示した。

 残留婦人らは若いころに日本社会から切り離され、長年にわたって中国で生きるほかなかった。そのため帰国後に自立する力を十分に持てなかった。それは他の戦争被害者とは異なる特性だ。

 判決はそう指摘したうえで、国の政治的責務を認め、「きわめて消極的な帰国支援策しか行わず、帰国後の支援も不十分だ」と述べた。

 一方で、判決は「原告らには公営住宅が提供され、不十分ながらも生活保護の支給や年金の特例措置がなされている」と述べ、「国家賠償法で違法とするには、いま一歩足りない」と結論づけた。

 国の政策決定では、経済や財政を見渡し総合的な判断が必要となる。だから、行政や立法の裁量権は広めに認めるべきだ。そんな考え方が裁判官には強い。

 しかし、少数であっても特別の被害を受けた人たちを救済するのは、まさに司法の出番だ。年金の特例措置といっても、掛け金なしでもらえるのは月2万円ほどにすぎない。これだけ残留婦人の実情に理解を示したのだから、訴えを認めることもできたはずだ。判決の結論には物足りなさを感じざるをえない。

 もっとも、判決は政府や国会に対し、あえて次のような具体的な言葉を用いて、支援策の充実を求めた。

 「生活保護とは別の援助金(年金制度の特例を含む)を構築する立法をせずに放置することは、見すごせないとも考えられる」「原告らに対する日本語教育の貧困は目をおおうばかりで、生活保護法の硬直的運用も、非常に問題がある」「職業訓練機関の充実など就労を容易にする施策を充実させることは、法律を伴わないでも実施できる」

 残留婦人たちはすでに70歳を超えている。残された時間は少ない。

 残留婦人であれ、残留孤児であれ、老後を少しでも安心して暮らせるようにする。それは彼らを置き去りにした国家のせめてもの償いだ。

 

[毎日新聞]2月16日

社説:中国残留邦人 安心して暮らせる支援を

 「違法性を認めるには、今一歩足りない」。国の移民政策で旧満州(今の中国東北部)に渡り、終戦後もとどまることを余儀なくされた中国残留婦人らが、国の責任を訴えていた訴訟で、東京地裁の判決はこの言葉を繰り返しつつ、原告の請求を棄却した。一方で被害や国の怠慢などをほぼ全面的に認定したことから、判決は国賠訴訟のハードルの高さを強調しながら、救済策の必要を認めたと受け止めたい。上級審の判断も仰ぎたいが、立法、行政による支援を先行すべきではないか。

 この裁判では、日本が被害を与えた国で加害側の人間として生きねばならなかった残留婦人らの苦難の歴史の責任が問われた。日ソ開戦後の旧満州で、日本人の女性や子どもが、侵攻したソ連軍や一部の中国人に受けた略奪や暴行の実態は関係者の口が重いせいもあり、ベールに包まれてきた。だが、原告たちが勇気を出して悲惨な体験を赤裸々に語ったことから、国策によって難民の憂き目に遭った経緯が明かされた。

 判決が認定したように、国は軍事的危険地帯に送り込んだ国策移民を終戦前から見捨てた。戦後も引き揚げ事業が他地方より1年も遅れ、寒冷地に一冬置き去りにされたことが、被害を増大させ、複雑にした。中国の誕生後も集団引き揚げは続けられたが、日中間のトラブルで中断すると、ろくに調査もせずに未帰還者の過半数を戦時死亡宣告の対象とした。終戦時に満13歳以上の者は判断力があった、として自ら残留を希望したとみなして支援を打ち切った。

 72年の日中国交回復後も残留孤児の親族捜しが優先され、残留婦人には自身で身元引受人を見つけた場合に限り自費での帰国を認める、という無理難題を押し付けた。この間、中国籍を得たからと外国人扱いしたため、帰国後に「帰化」して日本人に戻った在留邦人も多い。特別身元引受人制度などができ、国費での帰国に道が開かれた後も、日本語教育などの公的自立支援策は残留孤児に対するもの以上に不十分なものだった。

 判決は「中国残留邦人は日本社会での収入獲得能力を失っており、他の戦争被害者とは異なる」と指摘した。「危険な外地に送り出しながら危急時の国民保護策を講じなかった政府には補償措置を行うべき政治的責務があった」とも認定した。「生活保護とは別の援助金支給制度の創設には立法が必要になる」とも述べている。

 この司法判断を厚生労働省などの行政当局や立法府である国会は、真摯(しんし)に受け止めねばならない。政府は冷淡な仕打ちを反省し、謝罪すべきでもある。残留孤児を含む残留邦人は、帰国後も多くは定職を得られず、6割近くが生活保護を受けて暮らしている。節約して用事で訪中しただけで「余裕がある」と減額される生活保護を生活保障に切り替えてほしい、せめて3分の1しか支給されぬ国民年金を満額にしてほしい……。原告らの願いはつつましい。

 判決を好機とし、在留邦人の労苦に報いる方策を講じたい。

毎日新聞 2006216日 東京朝刊

 

[北海道新聞]

中国残留邦人*救済策は政治の責任で(2月16日)

 敗戦前後の混乱で肉親と生き別れ、長く中国で暮らした後に日本へ永住帰国した中国残留婦人らによる国家賠償の請求を、東京地裁が棄却した。

 判決は、原告が過酷な被害を受けたと指摘、国の怠慢を批判しながら、「国家賠償法上の違法性を認めるにはいま一歩足りない」と述べた。どこまで苦しめば足りるというのか、なんとも理解しがたい結論である。

 この訴訟とは別に、札幌を含む全国十五地裁で、残留孤児による集団訴訟が進んでいる。その最初の司法判断となった昨年七月の大阪地裁判決も、同様に賠償請求を棄却した。

 現行法の枠組みを前提にする限り、司法による救済には障害が多く、長い時間が必要だ。残留婦人・孤児の高齢化も目立ってきた。政府や国会が新たな救済法策定へ腰を上げる時期が来ているのではないか。

 原告らは、国の政策による開拓団の家族として、戦前に旧満州(現中国東北地方)に入植。敗戦に伴う混乱の中で肉親と離ればなれになり、帰国できないまま中国での生活を余儀なくされた。当時、十一−十六歳だった。

 五十歳を過ぎてから日本に永住帰国し、生活保護費や少ない年金で暮らしている。国が早期帰国の措置を取らず、帰国後も定着や自立のための十分な施策を怠ったとして、二○○一年に提訴した。

 新規立法による幅広い救済が望まれるのは、三人の原告が置かれた環境が、決して例外とは言えないためだ。

 二千五百人の残留孤児の多くが日本の社会に適応できず、孤立の中で暮らしている現状がある。生活保護受給者は七割に及ぶ。

 敗戦前後と帰国後の今と、二度「祖国」に見捨てられた、という失望の深さが、訴訟に加わった二千百人という数の重みとなって表れている。

 救済を司法の場にばかり求めるわけにはいかない。ここは、政治がしっかりした対策を打ち出すことが大切だ。

 ハンセン病訴訟の解決を目指した補償法改正が好例となるだろう。日本植民地時代の韓国と台湾で、ハンセン病療養所に入所させられた患者が補償を求めた訴訟である。

 東京地裁は昨年十月、台湾の原告を勝訴、韓国の原告を敗訴とする正反対の判断を別々の法廷で下した。

 すべての患者の救済を急ぐため、補償法改正の議員提案が行われ、今月に入って全会一致で成立。訴訟は取り下げの方向だ。

 政府は中国残留孤児集団訴訟での大阪地裁判決を受けて「多くの方が耐え難い苦しみと悲しみを被られたことは極めて遺憾」と表明している。必要なのは、戦争被害を救済しようとする意思だ。残留邦人の中に残る「戦争」を、終わらせる責任がある。

[東京(中日)新聞]2月16日

残留婦人判決 『もう一歩』の温かさを

 国に二度も棄てられた−。中国残留婦人らは、東京地裁の判決にそんな無念の思いを抱いたのではないか。その半生の過酷な傷は、今なお癒やされていない。何とか温情を国は注げないものか。

 戦後六十年を経ても、なお戦争処理をめぐる課題は残されている。

 中国残留婦人らが国に損害賠償を求めた訴訟は、悲惨な戦争被害の存在と早期救済をわれわれに問いかけたといえる。

 訴えたのは、満州(中国東北部)に開拓団の一員として、送られた人々である。二十万人以上の日本人を大陸に移民させたのは、戦前戦中の「国策」そのものだった。しかも、開拓団の多くは、旧ソ連国境に近い地域に住んだ。軍隊の補給などを担う使命も帯びていたからである。

 原告もそんな軍事的危険地帯に住んだ。終戦直前、ソ連軍が侵攻してきたことで、筆舌に尽くせぬ悲劇が起こった。大混乱の中で数知れぬ人々が殺された。生死の境を歩む逃避行を試みたが、逃げ切れぬまま、難民となったのである。異国に置き去りにされた残留婦人の苦難は、想像を絶するものだったろう。

 その不幸の原因は、まさに「国策として満州に送り込んでおきながら、長年、国は放置し、救ってくれなかった」という点に集約される。とくに残留婦人の場合、終戦時に十三歳以上だったというだけで、「中国に残ったのは自己意思によるもの」と国に判断された。そんな無理解から、残留孤児に比べて、行政の施策が後手に回ったのである。

 今回の判決は、国に対し「早期帰国の政治的責務を怠った」と判断しつつも、国家賠償のハードルは高く、それを認めるには「いま一歩足りない」と断じ、訴えを退けた。

 中国残留孤児をめぐっては、別に全国の十五地裁で、計約二千人の孤児らが国に賠償を求めた集団訴訟がある。昨年夏に大阪地裁であった判決は、「戦争損害は国民が等しく受忍しなければならない」という理由から請求を棄却した。

 だが、今回の判決はその点、日本社会から切り離された原告には「他の戦争被害者とは異なる特性」を認め、理解を示した。実際に戦後、年金など社会保障システムに乗れた国内の戦争被害者に比べ、残留婦人らへの対策は遅れ、不十分だった。別の扱いがあってしかるべきだろう。

 損害賠償を認めるには「いま一歩足りない」と繰り返し言及する判決だった。むしろ「もう一歩」の温かい施策が望まれるのではないか。原告の女性たちはもう七十代である。救済できる残り時間は少ない。

 

[神戸新聞]2月17日
中国残留婦人/生活支援は国の責任だ

 一九三二(昭和七)年から先の大戦の終戦まで、国策で旧満州(現在の中国東北部)に農業移民として送り込まれた日本人は二十万人以上にのぼる。終戦直前の日ソ開戦の混乱の中で、命を落とす人が相次ぎ、帰国の道を閉ざされた人も多かった。

 国は、肉親と生き別れになった人のうち、十三歳未満で身元がわからない人を「残留孤児」、十三歳以上で身元ははっきりしているが、中国人との結婚などで帰国の機会を失った女性を「残留婦人」と区別し、当初は援護施策の対象外とした。

 そんなつらい体験を経て永住帰国した女性のうち三人が、「早期帰国の措置を取らなかった」などとして国に損害賠償を求めていた裁判で、東京地裁は女性たちの訴えをほぼ全面的に認めながら、賠償の求めは退けた。国家賠償法上の違法性を認めるハードルは高く、「いま一歩たりない」というのが、その理由である。

 被害を認め、国の責任にも言及したのなら、それこそいま一歩という思いがする。

 残留孤児の提訴は全国十五地裁で二千百人が原告になっている。帰国した孤児の80%を超えているが、残留婦人はこの裁判が初めてで、原告は三人だけである。

 女性たちがたどった道が悲惨で過酷であり、語ることへの抵抗感が強いからだ。そういう中で、三人は代表として法廷に立った。原告の一人は「悲惨な戦争体験を語るのは自分の使命」と言い聞かせてきたという。

 三人の訴えは、判決に生きている。国が十三歳以上を「残留婦人」として区別してきたのは、判断能力があり、自分の意思で残ったことを理由にしているが、判決は「集団的引き揚げの情報も届かず、意思によらず長期未帰還者になった。永住帰国(七八年から八八年)まで帰国の意思を持ち続けた」と国の主張を退けた。

 「帰国のための環境整備は、国交回復直後に可能だったのに、帰国旅費の申請権者を国内の親族に限定したため、原告らは何年も待たされた」と述べ、国の怠慢を認めた。

 さらに、帰国後の支援も不十分として、貧弱な日本語教育、苦しい生活実態も指摘した。全体として、判決は救済策の必要を認めたと読むべきだろう。

 帰国した残留婦人の過半数が生活保護を受けており、年金も月五万円未満が70%を超える。こうした実態に国は目をそむけるべきではない。原告三人の後ろには、まだ中国に残る約二百十人も含めて、四千人の残留婦人がいる。

 

[信濃毎日新聞]2月17日

社説=残留婦人判決 国は訴えに応える時だ

 中国残留婦人が国に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は国の怠慢を認めた。請求そのものは棄却したものの、重い判決である。国として目をそむけていい問題ではない。訴えに応え、帰国者が安心して暮らせるよう対策を講じるべきだ。

 原告は、11歳から16歳の時に中国で終戦を迎え、日本に永住帰国した3人である。「早期帰国措置を取らなかった」などとして賠償を求めた。残留孤児による訴訟が広がるきっかけにもなった裁判だ。

 戦時中、国策によって中国東北部(旧満州)へ開拓団員として入植した人たちである。敗戦前後の混乱で家族と離れ離れになり、現地に長く取り残された。残留者の肉親捜しのため国が集団訪日調査を始めたのは1981年になってからだ。

 判決もこうした事実を認め、国を厳しく批判している。国交の回復直後に着手できた帰国の環境整備が行われなかった点などを挙げ、政治的責務の怠慢があったと指摘した。残留婦人は「自分の意思で残った」とする国の主張も退けている。

 それだけに、最終的に請求が通らなかったのは残念である。88年までに永住帰国したことや、不十分ながらも生活保護の支給を受けていることなどから、国の対応を違法とするには「いま一歩足りない」と結論付けた。非があると認めながら、免責したのでは胸に落ちない。

 判決は、国家賠償法のハードルの高さを指摘した。厳しい事実認定は司法のぎりぎりの意思表示とも取れる。昨年、残留孤児の訴えを退けた大阪地裁判決が「補償の要否や在り方は立法府、行政府の裁量に委ねられている」としてもいた。

 国がきちんと応えるときだ。訴訟に踏み切らざるを得ない帰国者の心情に、あらためて目を向けたい。長年、異国に置き去りにされ、帰国後も言葉や生活習慣の違いから苦しい日々を送ってきた。帰国者世帯の6割が生活保護を受けている。

 政治、行政の責任で新しい生活保障の制度をつくるなど、充実を図るよう求める。長野県は帰国者に毎月3万円を給付するといった支援策を講じている。本来、地方が個別に進めるのではなく、国としてやるべきことである。

 戦後60年が過ぎた。国策の犠牲者に対する救済、支援の問題をずるずる引きずってはいけない。時がたてばたつほど、帰国者は高齢化していく。賠償責任を否定した司法判断に安住せず、早く手を差し伸べる必要がある。

 

[京都新聞]2月18日

中国残留婦人 心の叫びに耳を傾けよ

 「祖国で日本人として人間らしく生きたい」との願いは届かなかった。

 戦後に永住帰国した3人の中国残留婦人・孤児が「早期帰国措置を取らなかった」などとして国に損害賠償を求めた訴訟の東京地裁判決は、原告の主張を全面的に認めながらも、請求は棄却するという、ちぐはぐな印象をぬぐえない結論になった。司法の思い切りの悪さに不満を覚える。

 3人は残留婦人・孤児が国の戦後責任を追及した初の訴訟として2001年に提訴していた。

 判決は残留婦人・孤児の置かれた悲惨な実態を認め、放置して救済しなかった国の怠慢を厳しく批判した。だが、そこまで踏み込んだ指摘をしながら国家賠償法上の違法性については「看過できないほどの著しい怠慢がない限り違法とはいえない」と、手のひらを返したように国の免責を結論づけた。

 行政や国会への「救済要請シグナル」と読むべきなのだろうか。そうだとしても司法による責任の転嫁であり、役割の放棄ととられても仕方あるまい。ただ政府は判決が指摘した自立支援施策の立ち遅れなどについては真剣に受けとめ、対策にいっそう本腰を入れるべきだ。

 中国残留婦人・孤児の多くは「国策」で旧満州(中国東北部)に入植した家族の子女だ。ソ連参戦の混乱下で親らと離ればなれとなり、中国人の養父母に引き取られた。

 日中国交正常化までは帰国に関して手がつけられなかったとしても、政府の訪日調査が始まったのは、正常化からさらに9年後の81年だ。帰国促進と自立を国や自治体の責務とした「帰国者支援法」は94年になってようやく成立した。

 とりわけ残留婦人らは当初、訪日調査の対象とならず、同法ができるまでは帰国後の日本語学習や就労などの援護も対象外とされてきた。

 政府は終戦当時の年齢が13歳未満を「孤児」とし、13歳以上を「婦人」と区別した。婦人は「自らの意思で中国に残った」とみなしたため帰国後の支援が立ち遅れたというのは、政府の言い訳に過ぎない。

 昨年3月に発表された厚生労働省の全帰国者生活実態調査では、永住帰国した残留婦人・孤児の60%近くが生活保護を受け、帰国前より「生活が苦しくなった」と感じている人も30%近くに上っている。

 苦しい思いを重ねて帰国したのに生活は苦しく、将来の希望も持てない現実がうかがえる。今回判決を受けた3人のほかに、2000人を超える残留孤児らが国の損害賠償を求めて全国の15地裁と大阪高裁で係争中だ。司法も行政も原告の訴えにしっかり耳を傾けてほしい。

 「残された子どもたちのことを考えると安心して死ねない」。今回の原告、鈴木則子さん(77)の言葉を真摯(しんし)に受けとめ、具体的施策の前進につなげたい。