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日本は「美しい国」か?−裁かれる中国「残留孤児」政策

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「法と民主主義」11月号で中国「残留孤児」問題の特集が組まれました。
※ご注文はこちらから
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin

★特集 日本は「美しい国」か?──裁かれる中国「残留孤児」政策
◆特集にあたって……鈴木経夫
◆裁判はこうして提起された──中国「残留孤児」被害は、国の政策被害……菅原幸助
◆「残留婦人」訴訟と「残留孤児」訴訟に関与して……北澤貞男
◆戦後処理問題としての中国残留孤児訴訟──憲法学の視点より……内藤光博

 ●──「残留孤児」訴訟の理論的到達点──●
◆残留孤児訴訟の法的枠組み──救済のための新たな法理論の構築……斉藤 豊
◆大鷹判決・野山判決の批判……井上 泰
◆「残留孤児」の被害とは──戦後補償裁判の中における残留孤児訴訟の位置づけ……田見高秀

 ●──「残留孤児」訴訟の社会的意義と現状──●
◆中国「残留孤児」裁判の全国的展開と運動の到達点……清水 洋
◆全面解決を目指して……安原幸彦
◆尊厳ある生活保障を求め、差別構造の世代相続を絶つために──二世の立場から見た国賠訴訟の意義……大久保明男
◆「孤児」の平和に生きる権利を回復するまで……橋本左内

 ●──「残留孤児」訴訟・原告の声──●
◆私の祖国は何処? 私はなにじんですか?──原告団代表・池田澄江「陳述書」より

■特集にあたって
 一 中国残留孤児の現状
 日本の国策によって旧満州(中国東北部)に送り込まれ、日中戦争終了後、中国の社会で辛うじて生き延び、やっとの思いで日本に帰国できた中国残留孤児たち、戦後六〇年を経過した現在、ほとんどが生活保護を受けて、老後を送るしかない状態に追い込まれている。しかも大多数は、日本の社会では人間として疎外された生活を強いられている。日本語がほとんどできず、さらに日本の親族がいない、というより日本人でありながらその出自が不明のものが多く、血縁者からの援助も、そもそも期待できないのである。それにしても、何故に、生活困窮のままで、日本社会の一員になれないような状況が放置されてきたのか。
 二 残留孤児の発生と国の責任
 「王道楽土」と称する日本の傀儡国家・満州国に、開拓団は国策によって送り込まれた。生活苦から逃れるために「分村」の形で、村ぐるみ満州に渡った人たちもいる。さらには、開拓団のなかには、敗戦の直前に、潜水艦の攻撃に怯えながら、釜山海峡を渡り、やっと北辺の土地に入り、日本からの荷物が着いたと思ったら、なんだかまったく分からないうちに、ソ連軍と遭遇することになった人たちすらいる。開拓団の安否は軍の思考過程からはまったく脱落していた。ソ連との戦争を早くから想定しながら、開拓団に属する日本国民の安全は微塵も顧慮していなかった。日本の参謀本部は、とっくに満州の北部四分の三は放棄することを決め、既に軍隊、すなわち関東軍は、厳重な秘密保持のなかで、南方向へ移動済みであった。そのうえ日本軍は、根こそぎ動員で開拓団の男子を軍に徴兵した。そのため、年寄りと女性と子どもの集団が放置された。その動員も、すなわちリーダーとなるべき人が欠けたことも、多くの開拓団が、纏まって行動できなくなった原因のひとつである。ところで、軍は一方で、関東軍の高級将校の家族については、特別の手段を講じて、いち早く帰国させているのである。
 三 残留孤児の惨状
 ソ連の参戦などまったく寝耳に水であった開拓団は、その軍隊に蹂躙され、次いで土地を奪われるなど恨みをかっていた現地の中国人に襲撃された。逃げるにも、日本軍によって鉄道は破壊され、橋も落とされ、開拓団は軍の作戦から当然に予測されたとおり、文字通り現地に遺棄されたのである。
その後の開拓団の南への移動は、いわゆる「死の逃避行」となり、それに続く収容所での生活も含めて、人間社会の想像を超えた凄惨な状況が現出した。幼児も含めた集団自決、襲撃されての多数の死亡、食糧不足からの大勢の餓死、発疹チブスの大流行等々。死体は厳寒の満州に放置された。そうした中で、何とか生きながらえてほしいとの母親の最後の望みをかけて、中国人に預けられたのが残留孤児訴訟の原告となっている孤児たちである。孤児たちは中国人の日本軍の満州における侵略行為の責めを一身に受け、「小日本鬼子」といじめられ、あるいは僻地農村に下放され、文化大革命ではスパイ扱いされ、苦難の道を歩んできた。
 四 国の対応の無責任
 中国残留孤児に関しては、現在の状況に追い込まれたことについて、いささかも孤児たち自身に責められるべき点はない。しかも、国は、孤児の発生についてその責めを負うべきは当然であるが、その帰国についても、怠慢としか言いようのない策を繰り返してきた。そればかりか、簡単に孤児の死亡宣告をして戸籍を抹消したり、勝手に帰国の意思なしと認定をして、未帰還者からはずしたり、親族が身元保証(帰国してからの生活も含めて)をしないと帰国できないなど、厚労省には、孤児たちの帰国を積極的に妨害をしてきたとしか思えない立法や政策がある。そして、やっと帰国できても、日本での生活経験の全くない孤児に対し、その「自立支援」について、国のしてきたことは、日本語教育といい、職の斡旋といい、無策であったといって過言ではない。中国では医師の資格をもっている者も、病院に関係する職を斡旋するなどまったくなく、掃除婦としてやっと職を得たという例も、一つならず存在している。国の自立支援策の失敗は、孤児の現状が何より雄弁に物語っている。
 五 日本は「美しい国」か
 海外に残った国民に対する件としては、最近では、イラクで誘拐された日本人の救出、北朝鮮の拉致被害者に対する国の対応等はめざましい。後者のためには安倍内閣は閣僚に準ずるような専属のポストまで用意したのである。いずれも国に責任はないのに。しかし、海外にあって帰国を願う日本国民に対する処遇として、それは首肯されこそすれ、我々弁護団も非難する気はない。それと比較して、僅かの予算で、厚生省の一部局の引揚援護局、さらには孤児対策室に、膨大な数の中国残留邦人の帰国、自立支援を担当させて来たのとは、あまりにも違いがありすぎる。その点を強く指摘したい。しかも、厚労省は、これまでの孤児対策について、不手際を認めるどころか、最近では「生活保護を与えているから、自立支援義務は果たしている」とまで言い切っているのである。
 戦後六〇年も経過して、海外に放置した自国民に対して、このような対応しかできない文明国はないであろう。「美しい国」という言葉が最近使われる。これほどの恥部を抱えた国を表現するには、「あまりにもふさわしくない」としか言いようがない。
我々弁護団としては、この損害賠償の訴訟に勝訴することで、老境に向かう孤児たちが、日本に帰ってきて良かったと心から納得できるような、国による施策の実現を求めてきたのである。また、この訴訟の原告全員が、あのような過ちは二度とくりかえさないという誓いを含めた、国の残留邦人(孤児と婦人を含めた)に対する心からの謝罪を求めているのである。
 六 終わりに
 この特集は、残留孤児問題とどのように取り組んできたか、原告団、支援の方々、弁護団ら、関係者の裁判への各取り組み、一〇〇万筆を超えて集めた支援の署名、その他の運動面の現状、あるいは到達した法的な見解等の集大成とするつもりである。特に孤立し、疎外されていた原告たちは、自分の力で次第に団結を強め、連帯の輪を広げ、それを全国にまで拡大してきた。皆様のさらなるご支援をお願いしたい。(すずき つねお)


(中国残留孤児関東弁護団 鈴木経夫)

『中国残留日本人─「棄民」の経過と、帰国後の苦難』(大久保真紀)

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これまで、中国残留日本人孤児等の取材を続けてこられた朝日新聞記者大久保真紀さんによる『中国残留日本人─「棄民」の経過と、帰国後の苦難』(高文研)が発売されました。

日本の敗戦により、「満州」に置き去りにされ、生きるために中国に残らざるを得なかった残留婦人・孤児たち。やっとの思いで祖国・日本に帰りついたが、そこに待っていたのは……。
新聞記者として20年にわたり、「国家」に翻弄される人びとに寄り添い、苦難の人生を見つめ続けたヒューマンドキュメント!

●目次
はじめに

T「原告番号1番」池田澄江さんのたどった60年
「日本政府は本当に冷たい」
世界一尊敬している養母のこと
養父母に預けられた経緯
貧乏のどん底へ
つのる祖国への想い
恐怖の文革時代
肉親の情報を求めて
「私の心は日本に届く」
祖国の土を踏む
まぶたの父は、父ではなかった
強制送還の恐怖
日本人なのに、日本国籍を取得できない?
正真正銘の日本人に
日本語の壁
弁護士事務所の事務員に
中国人の夫が日本社会になじむまで
子どもたちが猛烈ないじめに
娘が見つけた居場所
中国に残した養父母
奇跡の再会
「一歳」の誕生パーティー
「残留孤児」の生存権をかけて
原告団の代表として

U「強行帰国」で国を動かした12人の残留婦人
「祖国で死なせて」
「強行帰国」のリーダー
国友忠さんとの出会い
シベリアに抑留された夫は再婚していた
養家は布団もない極貧農家
「強行帰国」への準備
中国帰国孤児定着促進センターへ
記者会見で語った一二人の思い
「中国残留邦人等帰国促進・自立支援法」の成立
帰国後の暮らし
特別身元引受人との葛藤
精神的な上下関係
「国からお金をもらって、毎日遊び歩いている」
子どものためだけに生きてきた
「日本人の女の配給だ」
文革の嵐を生き抜いて
一回でいいから、中国に残した子どもに会いたい
たまたま死ねなかっただけ
五〇〇キロのコーリャンと交換で嫁に
中国から呼び寄せた家族が直面した「壁」
娘の「おしっこ!」がわからない
孫娘が弁論大会に出場

V 政府の強制退去命令とたたかった 井上さん家族の「きずな」
第二の家族離散
強制収容
二度目の強制収容
仮放免という身分
忘れられないキュウリの味
土地改革で生活が一変
帰国できなかった理由
下放された農村での生活
帰国までの長い道のり
一万円の生活保護の制約
中国に残した長女と次女を呼び寄せる
新たなたたかい──強制退去命令の取り消しを求めて
強制収容で一変した生活
敗訴──福岡地裁三〇一号法廷「棄却する」
控訴審開始
拘留一年一〇カ月後の仮放免
勝訴──福岡高裁五〇一号法廷「原判決を取り消す」
希望の歌「離れたくない」
「残留日本人」を生み出した歴史と残された課題

http://www.koubunken.co.jp/0375/0365.html
(高文研HP)

最後の原告本人尋問

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 12月22日、東京地裁で原告3名の本人尋問が行われました。

 最初に証言台に立った横浜市在住のW.Tさん(女性)は、耐えられず自殺を図るほど養母からひどい虐待を受けましたが、必ず迎えに来るといった母の言葉を信じ養母の家を離れられなかったことや、訪日調査で日本に来たときに自分の母親かもしれないと思われた人が既に亡くなっていたことを知った悲しみなどについて語りました。
 次に証言台に立った千葉県在住のK.Mさん(女性)は、日本語で供述しました。Kさんは中国で学校に通えず、中国語の読み書きさえ十分に出来なかったのに、帰国したい一心で必死で日本語を独学したこと、帰国後、自分が学校に行けなかったため、せめて子どもたちには学校に行かせてあげたいとの思いからパートで収入を得たところ、生活保護費の支給が停止され、その後支給が再開されたものの毎月3万円づつ生活保護費が削られ大変困窮したことなどについて語りました。このことからも、生活保護がいかに「残留孤児」に馴染まない制度であるかが明らかになりました。
 最後に原告団代表の1人である池田澄江さん(写真)が証言台に立ちました。池田さんはご自身の帰国への努力と祖国の冷たい対応、肉親との奇蹟の再会と帰国後の苦難について語られたほか、法律事務所の事務員として就籍申立手続きを担当して1000名を超える「孤児」たちの人生に触れてきたこと、「孤児」たちが団結して裁判に立ち上がった経緯について語り、最後に裁判官に対して、次のように訴えかけました。

「私たちは日本語のできない一番弱い日本国民です。
 大阪判決は、私たち「孤児」に対し、戦争被害だからがまんしなさいと言いました。しかし、私たちは自分の意思で中国に残ったのではありません。しかも、中国では侵略者日本の子として、戦争責任を背負って、苦しくみじめな運命を生きてきました。
 残留孤児は、誰でも自分の本当のことを知りたい。親に会いたい、母の祖国に帰りたい。でも、日本政府は、私たちを捜そう、日本に連れ戻そうとしてくれませんでした。ようやく日本に帰ってきた私たちにとって、日本は、生きていくのに悲しく、苦しい、冷たい祖国でした。
 私たちの残りの人生はもう長くない。せめて祖国で、普通の日本人のように人間らしく生きたいのです。大阪判決のような私たちを裏切る判決をしないで下さい。私たちを救うような、人生を変えるような判決をください。一度でいいから、私たちが帰ってきてよかったと思えるような祖国にして下さい。」

 池田さんが、供述を終えると、自然と傍聴席からは拍手が湧き起こりました。

 これにて、原告本人尋問は終わりました。次回、歴史研究者に対する証人尋問が行われた後、いよいよ、来年5月24日に結審となります。
 来年は「残留孤児」訴訟にとって再決戦の年となります。引き続きのご支援をお願い致します。

〇次回期日は、以下のとおりです。
2006年2月21日(火)午前10時〜午後5時 証人尋問
 ※場所:東京地方裁判所103号法廷
 ※傍聴するには傍聴券が必要です。傍聴券の抽選は午前9時30分

※2005年11月8日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=113
※2005年8月31日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=91

「残留孤児」二世の訴え

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「残留孤児」二世を知って
親の祖国で 人間らしく生きたい

 「ある意味、私たちは日本社会のマイノリティー(少数派)です」。そう話す藤原知秋さん(35)=千葉県在住=は、かつての戦争で中国に置き去りにされた「残留孤児」の二世です。「二世の存在を知ってもらいたい」と藤原さんたち二世は団体の立ち上げを計画。祖国で人間らしく生きる権利を求めた中国「残留孤児」裁判の勝利をめざしています。

■国賠訴訟に立ち上がった藤原知秋さん(35)
 日本に戻った「残留孤児」の家族の多くは、日本政府のきちんとした生活の保障が受けられず、老後を心配しています。藤原さんは「耐えて、耐えて、ここまできたけど、もう耐えられない。私たちの苦労を突き詰めていけば、責任は戦争を始めた政府にある。少しでも政治を変える力になりたい」と話します。

■現実の壁
 藤原さんの母親は一九四三年に中国で生まれました。終戦当時の混乱期、中国人の養父母にあずけられました。

 一九九〇年三月八日、藤原さんは父、母、妹とともに帰国。二十歳のときでした。留学にあこがれる人々が中国国内で増えてきた八〇年代。日本に渡ることに抵抗感はありませんでした。

 「日本に来てから現実の壁にぶつかった」。言葉、仕事、人とのつきあい…。帰国して一、二年のこと。日本語がうまく話せず、「電話のベルが鳴るたびに、家族四人とも心臓が止まるくらいドキドキしていた」。

 日本語に自信が持てるようになったのは大学卒業後でした。両親が話せないことに焦りを感じた時期もありました。しかし外国語の習得は簡単でないと、藤原さんは徐々に理解を示しました。「いまは無理をしないで、子どもの私に聞けばいいと思っています」

 現在は中国語の講師をしています。語学学校で働き始めて半年がたったころ、ストレスで潰瘍(かいよう)性腸炎になってしまいました。「日本に来て初めて“ストレス”という言葉を知った」といいます。

 仕事の合間をぬい、通訳を買って出ています。裁判の傍聴券抽選や厚生労働省、国会前の座り込みなど場面はさまざま。「親の問題のことだから普通の通訳よりもよくわかる。そう思い、自分たち二世が立ち上がった」

 藤原さんと同じ三十代でも日本語がうまく話せない二世もいます。「政府によって多くが農村部に振り分けられ、勉強する機会を奪われた」。中国語の教育も十分でない人たちもいます。十代は日本語しか話せません。

■私の時代
 これまでの運動は多くの市民によって支えられてきました。しかしボランティアのあいだでも高齢化が進んでいます。あるボランティアが藤原さんたちにいいました。「これからはあなたたち自身がたたかわなければならない」―。二世たちも「これからは自分たちだ」と強く感じました。

 活動のなかで、日本の侵略戦争によって被害を受けた中国人の戦後補償裁判をたたかう弁護士と知り合いました。ここでも支援をしています。「中国の原告も同じ戦争被害者。『残留孤児』や強制連行、『慰安婦』に遺棄毒ガスなど、戦後処理という大きなテーマの一つ一つです」

 中国を離れるとき、友達が「日本に住めなかったら帰ってこいよ」といい、笑いながら藤原さんを見送りました。それから十五年。「日本は母の国。中国は父の国。二つを切り離すことはできない。中国と日本を行ったり来たり、両国の橋渡しをしたい」

■言葉のハンディ親は働きづめ 橋本恵子さん(32)埼玉県在住、仮名

 私の父は、生まれて間もないころ中国のハルビン(中国黒龍江省)に置き去りにされました。栄養失調と病気の乳飲み子…。中国の養父母が「育ててあげる」と申し出てくれて生きのびました。

 その後、父は中国の人と結婚し、五人の子どもをつくりました。

 養父母も含め九人家族は、一九八〇年以降に帰国。私は十三歳のときに日本に帰国しました。中学生の年齢に達していましたが、日本語ができないというハンディがあって、小学六年生になりました。

 そこでうけたのは「残留日本人孤児」の子どもということからうけたイジメ。日本語ができないので「中国人。バカ!」とののしられ、ほうきで殴られたりもしました。

 「何で(日本に)つれてきたの」。私はイジメにあうと泣いて親に訴え、困らせました。それは、戦争が残した理不尽な傷跡への怒りだったのかもしれません。

 両親は食べ盛りの子どもを養うため、朝から夜まで残業、残業で働きづめ。長男も高校に進学したかったのにすぐに働き始め家計を助けました。

 「戦争被害は、国民ひとしく受忍しなければならない」と言い放った大阪地裁の判決から、有無を言わさない国家の強権的な冷徹さを思い知らされました。父たちは祖国を恋こがれて帰国しました。みんなが平等で、もっと優しい日本になってほしいと思います。

■「残留孤児」 戦争で中国に置き去り

 一九三二年、中国を侵略した日本は、中国東北部に「満州国」をでっち上げました。そして、一九三六年、二十カ年で百万戸の大量移民計画を決定。国策として日本から「満蒙開拓団」などを送り込みました。その数は一九四五年までに三十二万人余りになりました。

 一九四五年八月、ソ連軍が侵攻すると、軍人とその家族が真っ先に逃げ出して帰国。開拓民は置き去りにされ、集団自決、栄養失調、伝染病などによって多くの人たちが命を失いました。日ソ開戦時に六万人、終戦後に十八万五千人、計二十四万五千人が終戦直後に死亡したと記録(『引き揚げと援護30年の歩み』)されています。「残留孤児」はこうして親を失い、離別し、中国人に引き取られて育てられた人たちです。

 戦後、「孤児」を日本に招いての肉親捜しが始まったのは日中の国交が回復して九年もたった八一年三月になってから。永住帰国が本格化するのは八六年になってからです。

 帰国した「孤児」は、日本で生活するために欠かせない日本語教育と社会教育を十分に受けることなく自立を迫られました。就労の機会を奪われ、就労率は30%、生活保護受給率は六割を超えています。

 「残留日本人孤児」国家賠償訴訟 「孤児」の八割に当たる二千四十三人が東京、大阪など全国各地の十五の地裁に提訴した国家賠償訴訟。六日、大阪地裁の判決は最初の判決となりました。その判決内容は、原告たちが負った精神的な苦痛を受けた被害事実を不十分ながら認めました。しかし、早期に帰国実現をさせる義務の違反もなく、帰国した「孤児」を支援する義務違反もなかったとして、「祖国で人間らしく生きる権利」を求めた原告の訴えを棄却した不当判決です。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-18/2005071810_01_0.html
(2005年7月18日(月)「しんぶん赤旗」より)