続・将棋の話。
第67期将棋名人戦七番勝負の第5局は、昨日(6月3日)郷田挑戦者が羽生名人を破って、初の名人位に王手をかけた。
ネットやBSで時折観戦していた私にとって衝撃的な進行だった。
「ここは、完全に挑戦者優位ですね」「名人が盛り返しましたね」「千日手の手順を嫌って、再び挑戦者優位」と解説がなされるのだが、どうしてそのような形勢観となるのかが分からない。
そして極めつけ衝撃のラストは、王手も必死も一手隙もないままの名人の投了である。「どちらかと言えば挑戦者優位」の程度は分かる。しかし、投了しなければならないほどの大差があるとは到底了解困難なのだ。激しく王手をかけ合ってこそのシロウト将棋の醍醐味ではないか。こんなレベルの将棋を見せられても、ちっとも参考にはならない。
ところで、先の将棋連盟への通知に、返答があった。
「普及推進部 支部免状課」からである。たいへん丁寧で、好感の持てる文面であった。
段位免状での西暦表記を考慮すると言っていただいたことは欣快の至りである。
会長人事の一点を除けば、日本将棋連盟は健全である。
以下に、将棋連盟への再度の私信を掲記する。
2009年6月4日
社団法人 日本将棋連盟
普及推進本部支部免状課
○ ○ ○ ○ 様
東京都文京区本郷5丁目22番12号
澤 藤 統 一 郎
先に、段位免状の申請に関して下記2点のお願いを申し上げ、諾否の回答を求めた者です。
(1) 段位授与の免状から、米長邦雄氏の署名を外していただきたい。
(2) 免状の日付の表記を、元号ではなく西暦でお願いしたい。
この不躾なお願いと質問に対して、貴職名でのまことに迅速で丁寧な回答に接しました。その真摯な対応に敬意と謝意を表します。
将棋愛好者の一人として、会長人事を別とすれば、貴連盟が社会的な良識を堅持されていることを知り、たいへん嬉しく思いました。
第1点のご回答は、「現会長の署名を外した免状の発行はできない」とのこと。私的な団体の取り決めであれば、ご無理を申し上げるわけにはまいりません。
第2点については、「日付の表記は、通常は平成ですが、西暦の記入については考慮いたします」とのこと。この点については、心から感謝申し上げます。
ご回答に接して、米長氏が会長職を辞することを心待ちにし、米長氏の署名のない段位授与免状がいただけるようになった時点で、速やかに段位の申請手続きをして、西暦表記の免状をいただきたいと存じます。その際によろしくお願いします。
なお、私の毎日新聞紙上段位認定テスト応募は1248回から1257回まで、合計190点です。段位申請手続きが、米長氏退任まで遅延することをご了解ください。
末筆ながら、(米長氏を除く)貴連盟のますますの発展を祈念申し上げます。
私は将棋が好き。もちろん下手の横好き。
この20年誰とも対局はしていないが、クイズの一種として、「次の一手」問題を解くのが面白い。毎週2問出題の毎日新聞の紙上棋力認定テストでは、9週連続満点で10週目に1問の誤答。これで、200点満点の190点、5段位の申請資格があるという。
ところが、段位を授与する日本将棋連盟の会長が、あの米長邦雄である。
で、次の質問状を連盟に送った。
返事があれば、ご紹介する。
私は将棋愛好家のはしくれです。
余暇に恵まれず対局の機会はほとんど持てないのですが、新聞の将棋欄やテレビでの観戦を楽しみにしています。当然のことながら、将棋愛好家の一人として、貴連盟の発展を祈念して已みません。
しかし、不幸なことに、私は貴連盟の会長である米長邦雄氏には好感が持てません。婉曲な物言いを避けて率直に申し上げれば、虫酸が走るほどに大嫌いなのです。
氏のアナクロニズムで品性に欠けた言動には以前から眉をひそめていましたが、在野から発言する限りでは「言論の自由の行使」であって、「虫酸が走るほど大嫌い」にはなり得ません。ところが、氏は石原知事から、教育に関する見識ではなくその蛮勇を期待されて東京都教育委員に起用されました。行政権力を行使しうる立場となった氏は、教育にも憲法・教育基本法にも無知・無理解のまま、教育現場を混乱させ萎縮させる尖兵として大きな役割を果たしました。「大嫌い」の所以です。
近々米長氏が貴連盟会長の任期を終えるものと心待ちにしておりましたが、本日、あと1期・2年の続投が決まったとの報道に接しました。そこで、やむなく、次のお願いと質問を申し上げます。
私は、貴連盟にアマチュア段位申請の予定です。毎日新聞の紙上段位認定テストに連続10週応募し、200点満点のところ190点を得て、規程のうえでは5段位までの申請資格があるとされています。その段位の免状に、連盟会長としての米長氏の署名を拒否したいのです。
もう、ずいぶん昔のことですが、盛岡に住まいしていたころに、日本将棋連盟岩手支部の推薦で初段位の免状をいただきました。その免状には、大山康晴・中原誠・二上達也という、尊敬に値する3名の棋士のお名前が連署されており、感動したことを覚えております。
しかし、尊敬に値しない米長邦雄氏署名の免状では感動の余地はなく、むしろ、不愉快極まるものと言わざるを得ません。一将棋愛好家の、「米長邦雄氏の免状では、まっぴらご免」の気持を汲んでいただきたいのです。
棋風について好みの棋士や、尊敬する幾人かの棋士を特に選んでお願いという我が儘は申しません。米長氏でさえなければ、棋士のどなたの署名でもありがたく頂戴いたします。
なお、もう一点のお願いがあります。免状における段位允許の日付の表記が平成という元号でされた場合には大きな違和感を禁じ得ません。初代天皇・神武の即位を元年とする「皇紀」という年号表記にも、当代天皇の即位を元年とする「元号」表記にも、どうしても馴染めません。
将棋と天皇制とは何の関連性もなかろうと思います。ぜひとも、国際的に通用する西暦表示で、免状をいただきたいのです。
以上の2点について、よろしくお願い申し上げ、承諾のご回答を得て、段位の申請手続きに及びたいと存じます。あらためて申し上げれば、
(1) 段位の免状から、米長氏の署名を外していただきたい。
(2) 免状の日付の表記を、元号ではなく西暦でお願いしたい。
将棋愛好家として、貴連盟からの快諾のご返事をお待ち申し上げます。
なお、この質問書と貴連盟からのご回答については、何らかの方法で公開させていただきますので、ご承知おきください。
「法と民主主義」1月号に同封されて、「日民協通信」が届いた。冒頭に、1月18日の日民協新年会参加者の記念写真が掲載されている。前列中央に、斎藤一好先生のいつもとお変わりのない温顔。
昨日、その斉藤先生の突然の訃報に接し、本日告別式に参列してきた。茫然とするばかり。
今年の7月に米寿を迎えるというお歳ではあった。しかし、先生は人も知る健康体。背筋を伸ばした姿勢はいつまでも変わらぬものと思いこんでいた。
18日の会合では実にお元気で、珍しく一場の演説をされた。
「自分は海軍兵学校を卒業して海軍の将校となった。太平洋戦争の勃発時にはハワイ沖の陸奥の艦上にあった。その後、長門、雪風、伊400に乗艦して、戦争の悲惨を当事者として体験した。再び戦争を繰り返してはならない。
戦後の人生は、平和を築くために捧げてきた。国際民主法律家協会の活動も、不戦兵士の会の活動もそのような思いからだ。
今後とも、憲法9条を守り、平和を実現する運動に微力を尽くしたい」
本日仄聞したところでは、21日には、久しぶりにスモン訴訟の、元原告や弁護団の新年会にも出席されたそうだ。そこでも、どうして自分がスモン訴訟に関わり、弁護団長となったか、その切っ掛けを話されたという。
そのお話しの中に、「明日は、辻堂の『9条の会』の会合に出なければならない。スモンの新年会と重ならなくてよかった」と言われたという。その6日後に不帰の人となるとは、まさしく神のみぞ知ること。
告別式は、しめやかなハープの調べの中、無宗教で行われた。弔辞を述べられたのはお二人。69期海兵の同期生と江藤价泰前国際法律家協会会長。それぞれが、斉藤先生の戦前と戦後の環境を象徴するお立場。
ご子息の斉藤誠弁護士の謝辞をしんみりと聞いた。子が父の人生を総括して短く評する。10年前に私も同じ立場にあった。何年後か、私の息子はどう語るだろうか。
主権者の意思こそが、政権・政策の正当性の根源である。しかし、主権者の意思すなわち民意というものは、つかみがたい。はかりがたくもあり、移ろいやすくもある。
国の基本法である憲法について、そのかたちを決めるものは民意である。憲法記念日に、憲法意識についての各種世論調査が発表されている。この世論調査には一喜一憂せざるを得ない。その結論自身が世論を動かす要素となるからだ。
各調査結果が、似ているようで多様である。当然のことながら、調査主体の問題意識によって結論が異なってくる。
朝日の調査結果が、もっともオーソドックスで分かり易い。
「憲法改正が「必要」58%に対し、「必要ない」は27%。一方、9条を「変える方がよい」は33%で、「変えない方がよい」の49%を下回る」
分析の結論が、「改憲志向と9条への評価が共存する民意の状況が続いている」ということ。
改憲派は本当は憲法が嫌いなのだ。しかし憲法を無視することはできないから、都合のよい憲法に変えたい。当然に、新しい国民の権利を憲法に書き込むことなど本意ではない。邪魔な「平和憲法」を変容させ、「9条改憲」が狙いなのだ。
民意が、「9条改憲反対」なら、改憲の動きはストップすることになる。朝日の結論はそのような事態を示唆している。
毎日の調査結果は違う。
毎日の問題意識は次のとおりだという。
「世論調査に表れた国民の憲法意識は近年「憲法改正は賛成が多く、9条改正には反対が多い」傾向が続いている。最近のマスコミ各社の調査も、9条改正についての回答を賛否に大きく二分すると、▽朝日新聞(4月14、15日)賛成33%、反対49%▽NHK(4月6、7、8日)賛成25%、反対44%▽読売新聞(3月17、18日)賛成35.7%、反対55.8%−−などとなっている。世論は9条に触ることにはなお慎重だ」
「そこで、毎日新聞は‥9条改正について回答の選択肢から「分からない」を外した2択方式で聞いた。質問の仕方も「一切改めるべきでない」「何らかの改正が必要だ」と、どちらかに振り分けることを意識して尋ねた。すると、反対派は28%で、容認派が59%という結果が出た」
「そのうえで「何らかの9条改正が必要」と答えた人たちに、具体的にどのような改正が望ましいかを聞いたところ、半数近くは「新条項の付加」を選んだ。「9条1項(戦争放棄)だけ改める」5%▽「9条2項(戦力の不保持)だけ改める」22%▽「1項、2項とも改める」23%」
この数字の分析には、毎日自身が首を捻りつつ、こう言っている。
「(世論は)国際情勢の変化に何らかの対応が必要と感じながらも、現在の条項を変えることへのためらいもうかがえる」
「「9条改正が必要」と答えた人でも、自衛隊の海外での活動については「停戦後のPKO(国連平和維持活動)まで」とした人の割合が45%と最も多かった。現在の政府解釈で憲法改正は必要ないとされる活動だ。9条改正論はあくまで「必要最小限」の控えめな現実対応を求めている」
毎日の分析に異を称える根拠はない。だが、「問題意識」にこだわったがゆえの設問の仕方が回答に影響を与えてはいないだろうか。民意をはかることの難しさを感じる。
毎日の調査では、「何らかの9条改正が必要」と答えた人の半数近くを占めたという「新条項の付加」とは、一切内容の具体性がない。これでは、毎日の問題意識も空回りというほかはない。
悪意ある「問題意識」を持った世論調査をしているのが、日経。タチが悪いと言わざるを得ない。
日経の本日付社説の見出しが、「還暦の憲法を時代の変化にあう中身に」というもの。陳腐な「憲法時代遅れ論」「押しつけ憲法論」そして「何となく改憲志向」の蒸し返しである。
その「問題意識」に合わせたかたちで、「改正すべき理由」の45%が「新しい考え方を盛り込む必要がある」との調査結果となっている。「新しい考え方」とは、核武装肯定論から、天皇制廃絶まで一緒くたにしての無意味な選択肢というほかはない。
日経調査の最大の特徴は、「9条改憲」の是非を直接に問う設問のないこと。たいへんな「問題意識」である。それでも、2000年以来の5回の調査で、「改正すべきだ」は、61%、58%、55%、54%、そして今回の51%と、着実に減り続けている。「現在のままでよい」が、32%、33%、28%、29%、そして今回の35%である。
さすがに、「憲法論議慎重さを求める」と見出しを付けざるを得ない。
幕府軍と西南雄藩連合とが、天皇を「玉」と言って取り合いをしたごとく、今改憲派と阻止派とが民意を取り合っている。かつて天皇の権威を取り合ったのは、支配者間の争いであったが、今、私たちは為政者の虚偽を暴いて、民自身の真の意思を確立しなければならない。
60回目の憲法記念日に、そう思う。
「病牀六尺」は、子規の遺言であり、ブログでもあった。発表の場所は「日本」という名の日刊紙であった。
1902(明治35)年5月5日に書き始め、9月17日に127回をもって終わる。死はその直後19日の午前1時。かぞえで、享年36。その若さに驚く。
ときに耐え難い病苦を訴え、ときに「たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないではない」と、俳句を語り、写生画を語り、心に留めた雑事を語る。死の間際、死を意識しつつ、このブログを書き続けることが生きることであったのだろう。
病苦は不幸に違いない。が、病苦がもたらす夭折は生き恥をさらすことなく生を全うすることでもある。子規の生き方は、壮絶でもあり、美しくもあった。
原告ら代理人の澤藤から、審理に当たっての意見を申し上げます。
※ 何よりも、裁判官の皆様に、この訴訟が問いかけている問題の本質をご理解いただき、その重さを受けとめていただきたいのです。そして、それに相応しい訴訟の進行をお願いいたしたい。
本件は、訴訟の形式としては、173名の原告が被告東京都に対して、違法な懲戒処分の取消を求め、併せて慰謝料を請求するものです。しかし、実質において争われているものは、原告らの個人的利益救済の可否にとどまるものではありません。
真に問われているものは二つ。
その一つは、教育という社会的文化的営みに国家の介入は許されるのかという問題。
そして、もう一つは、個人の精神の内面に国家は立ち入ることができるのか、という問題なのです。
いうまでもなく、その二つとも、日本国憲法の原理的核心をなす重大な課題です。
※ 日本国憲法は、62年前の敗戦を機に、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意して」確定されました。戦争の惨禍をもたらした、旧体制を根底から否定して、現行憲法が制定されたのです。今、その歴史を再確認することは極めて重要なことと言わねばなりません。
大日本帝国憲法から日本国憲法へ。国家と個人の地位は逆転しました。ところが今、その再逆転の試みが進行しつつあります。本件も、そのような文脈で生じたものにほかなりません。
※ 戦前の教育を思い起こしてください。
天皇を神とし、神である天皇が唱導する聖戦に参加することこそが忠良なる臣民の道徳であると教え込んだのが戦前の教育でした。民族的優越を説き、富国強兵、植民地支配の国家主義政策の正当性を教え込んだのが戦前の教育でした。
教育は、戦争による加害・被害の惨禍に大きな責任を免れません。その反省が、戦後教育改革となります。教育を国家の僕にしてはならない。教育に国家が介入し、支配してはならない。国家が公定のイデオロギーをもってはならない。ましてや、それを国民に押しつけてはならない。
あまりに大きな代償を支払って、私たちはこの貴重な原理を手に入れました。
憲法の条文を上げれば、26条、23条、13条。そして、教育基本法以下の教育法体系です。これで、教育の自由は確立したはず、でした。
しかし、「10・23通達」はこれを踏みにじったのです。
※ 戦前の精神的自由に対する野蛮な権力介入を思い起こしてください。内村鑑三事件から、治安維持法による政治的弾圧、不敬罪による宗教弾圧、横浜事件に見られごとき言論弾圧、そして特高警察による流言飛語の取締まで。
大日本帝国憲法は、臣民の精神的自由は国家から与えられたものでしかなく、国家はどのようにでもこれを規制することができたのです。
歴史的には、思想・良心の自由は、常にその時代の為政者からの弾圧を受け続けました。ようやくにして日本国憲法は、19条で思想良心の自由を掲げ、20条で信教の自由、21条で表現の自由を定めました。これで、国民の権利は確立したはず、でした。
しかし、「10・23通達」は敢えて原告らの精神の内奥に立ち入り、思想・良心の自由を蹂躙したのです。
※ 「10・23通達」は、これまでは為政者がやろうとしてやれなかった暴挙です。原告らは、教え子の教育を受ける権利を全うするためにも、抵抗せざるを得ないのです。
教育は憲法に従って行われなければなりません。教育は行政の不当な支配を受けてはなりません。がんじがらめに縛られ、裁量と創意と工夫の余地を奪われての教育があってはならないのです。
もちろん行政も、憲法に従わざるを得ません。公務員と言えども人権の享有主体として、思想・良心の自由を保障されています。行政がその精神の内奥に立ち入って、その人がその人であるための人格の中枢の領域に触れることは許されません。
歴史的に天皇制とあまりに緊密に結びついた旗や歌に対して敬意を表明することを強制して、その人の信仰や思想、あるいは教員としての良心を侵害することがあってはならないのです。
※ そして当然のことながら、何よりも司法こそ、憲法に基づいて行われなければなりません。司法とは、憲法の理念を実現するシステムなのですから。
実は、本件については、事案と争点をまったく同じくし、訴訟の形式だけが異なる提訴が先行しています。いわゆる「「日の丸・君が代」強制予防訴訟」です。
昨年9月21日、東京地裁民事36部は憲法の番人に相応しい役割を果たす判決を言い渡しました。
貴裁判所におかれても、事実経過を正確にご認識いただき、日本国憲法の理念の的確な理解と、教育の本質についての深い洞察によって、是非とも、主権者の負託に応えた審理と判決をお願いいたしたい。来年か再来年のある日、この法廷で、きっと貴裁判所から歴史に残る素晴らしい判決の言い渡しを聞かせていただくことができるものと確信していることを付言して陳述を終わります。
本日、改憲手続き法案が、衆院本会議で可決。参院に送られた。来週から、参院でも審議入りだという。
本日の朝日「素粒子」の言うとおり、安倍晋三の正体見たり。祖父・岸信介のDNAがなせる業。
小選挙区制と郵政選挙で、国会の議席分布は国民世論を反映していない。そして反動自民党に、相変わらずの公明の後押し。罪が深い。
ところで、今朝の日経が「国民投票法案の衆院可決は当然だ」という社説を書いている。
かつては、日経を読んでいてさしたる不快感はなかった。経済活動の合理性が前面に押し出されている感じで、それ以上でも以下でもなく、イデオロギー臭を感じさせなかった。産経とはえらい違い‥。それが最近様変わり。経済団体が憲法や教育に口出しをするようになったのと符節を合わせてのこと。不愉快なので、購読をやめようかと思っている。
日経は、「国民投票法案は憲法改正の是非とは直接関係のない中立的なルールを定めるものであり、自民、民主、公明3党間に大きな考え方の違いがあるわけではない」という。とんでもない。
日本国憲法は硬性憲法である。神権天皇制憲法から、一足飛びに世界の普遍的原理に基づいた民主主義憲法を制定した当時の主権者は、旧勢力の揺り戻しを心配して、改憲手続きのハードルを高くしたのだ。
長く国会には「3分の1の壁」があった。改憲手続きのハードルを越えることができそうもないこの時期、手続き法案を作ろうなどと言い出す者はなかった。今、時世が変わり、小選挙区でゆがめられた今どきの国会でなら、「3分の2のハードルを越えることができるかも知れない」と思うようになっての、手続き法の提案である。
明らかに、改憲実現のための一里塚として提案がなされている。憲法を大切に思う人々が反対するのは当然のことなのだ。
それだけでない。誰にも公平な中立的ルールというものは現実にはあり得ない。改憲に有利か、改憲阻止に有利か、どちらに傾いたルールを作るべきか、綱引きの真っ最中である。
「遅きに失した感はあるが、ようやく国民投票法案が成立に向かって動き出したことを歓迎したい。衆院特別委での審議と自公民3党の協議によってすでに論点は出尽くしており、参院は速やかに審議を進めて早期成立を図るべきである」
冗談ではない。ゴリ押しでようやく衆院通過した法案だが、けっして成立させてはならない。
論点は出尽くしているなんて、とんでもない。
まだまだ問題山積である。参院では国民の声に耳を傾けていただき、慎重審議を重ねて結局は廃案に追い込んでいかねばならない。
今日は君が代不起立による嘱託不採用訴訟の原告本人尋問。3名の原告が、それぞれの個性あふれる、立派な証言をした。
教育という天職に実に真摯に取り組む教師たち。真面目な教師であるがゆえに、「日の丸・君が代」に敬意を表することができない。強制に屈することができない。強制に屈せざるを得ないとすれば、その精神的苦痛はこの上なく大きい。
今日の証言の中からの名文句。
卒業式とは何のためにするのかまずその目的を確定して、しかる後に確定された目的にあわせて式をどう組み立て進行するかを考えます。しかし、「日の丸・君が代」は、いかなる意味においても卒業式に登場してくる必然性がありません。卒業式の目的に無関係だからです。
やや突飛な仮定かも知れませんが、もし、「公務員が結婚するときは、式場に日の丸を掲げ君が代を斉唱しなさい」という規則ができたとすれば、多くの人は違和感をもつでしょう。それは、結婚式の目的が、「日の丸・君が代」とは関係を持たないからです。
それと同様に、卒業式の「日の丸・君が代」もおかしいのです。
私より若い総理大臣が、戦後レジームからの脱却などという時代になりました。彼には、戦争へのリアルな感覚が欠けています。その総理大臣の下で、憲法や教育基本法が変えられつつある。そのような時代の学校現場での愛国心教育であり、「日の丸・君が代」の強制です。これを許してしまえば、結局のところ戦前の二の舞、ファシズムへの道を掃き清めることになってしまいます。
国際交流において、国旗国歌の取り扱いなんて、実は些細なことなのです。大切なのは、他を尊重する心、他文化を受容する寛容さなのです。他を思いやり、異なった文化を受容する心さえあれば、相手が自国民であれ、たまたま外国人であっても、相手を尊重した交流が可能です。そういう姿勢さえあれば、他国の国旗・国家に非礼な行為などあり得ないのです。
私が社会科教師として実践の中で育んできた教育理念とは、「未来の主権者に相応しい学力と人格を育てる」ということです。そのためには、生徒を含む学校現場に自主・自由・自立の気風がなければならないと思っています。
歴史的な経験は、「未来の主権者に相応しい人格を育てる教育」の実現のためには、国家や行政による教育への介入の排除を必要としています。「日の丸・君が代」とは、教育現場への国家の介入の象徴と理解せざるを得ません。
本日、正午から衆院憲法調査特別委員会の理事懇談会。憲法改正の手続きを定める国民投票法案の扱いについて協議し、中山太郎特別委員長が職権で明日12日の委員会開催を決めた。
与党は、「12日午前中の委員会で与党と民主党の両修正案を採決し、与党修正案を可決。13日の衆院本会議で衆院通過を図る構え」と報じられている。
慎重審議の声は高い。むしろ、世論の趨勢だろう。まだまだ、詰めなければならない重要事項がたくさん残っている。最低投票率や周知期間、有料CM問題、教員や公務員に対する国民運動運動規制、インターネット規制など‥。
何より、改憲手続き法制定の狙いが9条改憲にあることは明らかだ。拙速の姿勢は、反対世論の高揚を恐れてのこと。
明日は、とりあえず国会へ。
9日、イラク中部のナジャフで、「米軍撤退を求める大規模デモがあり、数十万人が集まった」と報じられている。
注目すべきは、このデモがシーア派の聖地であるナジャフで行われながら、宗教色を抑えたものになったこと。
宗教対立を克服して、反米統一への動きが強まることを予感させる。
「アメリカが撤退すれば内戦の勃発」「退くに退けない米軍」というのは、実はためにするプロパガンダではないのだろうか。
それにしても、米軍はなんのために、地球の裏側まで出て行って、若者の命を犠牲にまでして、いったい何をしようというのだろうか。
そして、まだ自衛隊を派遣している日本は、何を求めているのだろうか。